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2015年11月年
ふれあい通信12月号をアップしました(高岡デイ)
高岡デイサービスセンターの「ふれあい通信」2015年12月号をアップしました。 防災・避難訓練の様子や12月の行事予定が掲載されています。 下の“☆ふれあい通信・12月号”をクリックしてください。
総合防災訓練を行いました
平成27年11月27日(金)、特別養護老人ホーム裕生園において、裕生園、ケアハウスシャトル、グループホームたちばな合同の総合防災訓練を行いました。
深夜の夜勤帯に震度6弱の大きな地震が起き、停電発生、居室の一部が崩壊し、利用者に負傷者が出たという想定のもとで、いかに夜勤者だけで初動を行うか、という訓練でした。
ヘッドライトやトランシーバー、ランタンなど非常災害用の道具類の位置と使い方、簡易担架の作り方、負傷者の応急処置のやり方、館内放送、マニュアルの位置などの確認を行いました。
百聞は一見に如かずで、やはり一度でも見ておくと、いざという時に体が動きます。毎年行っている防災訓練ですが、繰り返し行うことで危機感を新たにすることになり、問題点も見えて来ます。
今回も最後の反省会で出たのは、トランシーバーをどの時点で取りにいくか、とか、三角巾の便利さの再発見でした。
防災訓練を企画、実施するのは簡単ではないですが、実施してみると、いろいろなことがわかり、また意識が高まるので、今後も確実に行うことが必要だと思いました。
外食・ドライブに行きました(シャトル)
平成27年11月27日(金)、ケアハウスシャトルでは高岡町内の『なかむら』に外食に行きました。
シャトルから車で数分のところにある、うなぎ料理や鯉料理のおいしいお店です。
利用者の皆さんは、前もって自分の好きなメニューを予約してあったので、お店に着くとすぐに料理が出て来ました。
ボリュームもあって、「おいしかった!」と好評でした。
「90歳を過ぎたら、食べ残しがないようにいろいろ食べておきたい」と、自分のことを笑いながら言われる方もおられました。
食事の後は、近くの天ヶ城公園にまで足を延ばしてドライブしました。
少し風が強くて、冬が間近に迫っているのがわかりました。
また、いろいろな所へ外食ドライブに出かけたいと思います。
高木兼寛顕彰会主催『ビタミン街道歩こう会』参加記
平成27年11月23日(月)、勤労感謝の日、高木兼寛顕彰会主催の『第13回ビタミン街道歩こう会』が宮崎市高岡町の高木兼寛生誕地である穆佐(むかさ)地区で行われ、参加して来ました。高岡町内外の老若男女、三世代約70名の方が参加されました。心配された雨も何とか持ちこたえ、高木兼寛にゆかりのある地区一帯にあるいろいろな歴史遺産をめぐり歩き、またみかん狩りや宝探しなどをして楽しく過ごしました。
“ビタミンの父”と呼ばれる郷土の偉人、高木兼寛を偲び、高岡のことをもっと良く知るいい機会となりました。
たこ焼き作りをしました(シャトル)
平成27年11月20日(金)、ケアハウスシャトルではたこ焼作りをしました。
少しずつ冬の気配を感じる晩秋の今日この頃、アツアツのたこ焼はこころもホッと温まりますね。
材料はたこ焼の粉、卵、ネギ、水、そして中の具は、タコまたは魚肉ソーセージでした。
サ高住「みやづる」の棟上げ式が行われました
平成27年11月19日(木)、宮崎市高岡町の宮水流(みやづる)地区で建設中のサ高住(サービス付き高齢者向け住宅)「みやづる」の棟上げ式が行われました。
社会福祉法人信愛会から辰元信理事長、辰元圭子副理事長ほか関係者が出席、設計施工側から株式会社内山組の内山社長ほか関係者の方々が出席して、棟上げの終わった建築現場で行われました。
この日は、前日までの雨もあがり、空のところどころに青空ものぞくお天気でした。
今年8月半ばの起工式からちょうど3ヶ月が経過。これから来年の2月末の竣工まで、事故なく工事が進んで行くことを願っています。
高木兼寛という人がいた⑨
(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)
脚気の原因は食物の栄養バランスにある、具体的にはタンパク質が極度に少なく炭水化物が過多の場合に脚気におかされる、ということを、兼寛は過去のデータの徹底的な分析、海軍病院での脚気患者の診察、水兵たちの食事の質の観察で確信します。病気といえば細菌、または何らかの毒によるもの、という発想がほとんどであった当時、この兼寛の“脚気の原因は食物の栄養バランス”という説は、この説に基づくその後の実績と相伴って、世界の医学史の中で非常に革命的なインパクトを与えるものであって、のちのビタミン学誕生の大きなきっかけとなるのですが、兼寛本人にその意義の重大さの自覚が当時あったかどうかはわかりません。兼寛としては、ただただ、脚気を何とかしたいの一心で、あらゆる先入観なしに、データを分析し、患者と向き合い、観察に徹した結果の確信だったと思います。
さて、この頃、明治15年(1882年)、日本海軍を震撼させる事件が起こります。朝鮮で京城事変(壬午じんご事変)というものがあり、この時、日本の軍艦が初めて外国に出動しました。当時、朝鮮の王室内では革新派と保守派の対立があり、革新派は日本に、保守派は清国に接近していました。ついに両派の衝突が起こり、保守派が革新派の邸を襲い、革新派が招いていた日本人の軍事顧問ら数名を殺害、さらに日本公使館を襲撃しました。日本政府は在留邦人保護の目的で、日本海軍の主力軍艦5隻を現在の仁川近くの湾に派遣、清国も日本側を牽制するために当時の世界有数の巨艦3艦を派遣。同じ湾内で緊迫したにらみ合いとなります。両国艦隊の武力衝突も場合によっては予想されました。
この時、日本の5隻の軍艦内では大変なことが起こっていました。脚気です。多数の脚気患者が発生し、艦内では患者が身を横たえ、死亡する者も出ていました。もしも清国との間で武力衝突が起きたら、戦闘に応じる人員はわずかで、日本側が全滅することは明らかでした。日本側は、このような状態にあることを清国側に気付かれないようにすることに必死でした。幸い、日本と朝鮮政府との間に条約が結ばれ、清国の軍艦は去り、日本の軍艦も仁川を離れて日本に帰って来ました。
これは日本海軍にとって大きな衝撃でした。一大危機と言えます。いくら軍艦等の装備を充実させても、兵士が脚気で倒れて戦闘能力を発揮できなければ、全く意味をなしません。国家存亡にかかわって来ます。
海軍病院に運びこまれた兵士たちを見て回った兼寛は、上司の戸塚海軍医務局長に自説を訴えます。食物と脚気の関係について調査・研究を行った結果、タンパク質と炭水化物の異常な比率が脚気発病の原因と確信するに至ったことを述べ、そして、兵食を洋食に切り替えることを戸塚局長に提案します。
それに対して戸塚は難色を示します。その提案は海軍兵食制度の基本にかかわることだから、実行は非常に難しいだろう、と。金銭支給を廃止すれば、食費を貯蓄や仕送りに回している兵士たちの不満が出るおそれがあること。パンを主食とする洋食には兵士たちは慣れていないのでいやがるだろうこと。洋食は経費がかかり、海軍の予算にもかかわってくること。
兼寛はなおも兵食改革の必要性を訴え、結局、川村海軍卿(大臣)に上申することになりました。川村海軍卿は京城事変の際の脚気多発に衝撃を受けていたので、戸塚と兼寛からの上申を受け、海軍首脳者による将官会議を開き、そこに兼寛も呼んで上申書の趣旨を説明させました。兼寛は自説を展開。将官達は強い危機感をもち、長時間の協議を続けました。やがて意見がまとまり、結論が下されましたが、兼寛にとっては失望させるような内容でした。「将来、兵食の金銭支給を廃し、食物そのものを与えるよう改正することを、ほぼ内定する。海軍病院において数名の脚気患者に洋食を与えて実験する。」兼寛は、兵食改革は急務であると訴えたのに、「将来」とされ、しかも「ほぼ内定」という曖昧な表現になっていました。また、洋食による実験も上申案よりはるかに規模の小さいものとなっていたのです。
海軍省の遅々とした動きに焦燥感を抱いた兼寛は、政府部内で強い発言力をもつ人物たちに直接訴えるしかない、と思うようになります。そして実際に時の左大臣有栖川宮(ありすがわのみや)の側近を通して宮との面談を懇願し、それが認められ、宮に直接自説を披露する機会を持つことができました。海軍の兵食を洋食にすることが急務であることを申しあげ、予算の増大について大蔵卿その他の方々に何かの折に働きかけてほしい旨を宮にお願いしました。
このように兼寛が兵食改革の必要性について焦燥感をもって海軍上層部や政府部内の有力者に働きかけていた頃、海軍を戦慄させるもう一つの事件が起きました。明治15年12月に太平洋に練習航海に出ていた軍艦『龍驤(りゅうじょう)』が翌明治16年9月に日本に帰って来たのですが、ここでも脚気被害が大変なことになっていました。乗組員378名中、169名が脚気におかされ、しかも23名が死亡していたのです。この報告を聞いた海軍の高官達はいよいよ深刻な危機感を抱くようになり、兼寛も「わが海軍は脚気のために滅亡してしまう」と、兵食改革の訴えにますます奮闘して行きます。 (アッサン)
太平洋への練習航海で乗組員378名中、169名の脚気患者、
23名の死者を出した練習艦『龍驤(りゅうじょう)』
(Wikipediaより)
お芋の収穫をしました(たちばな)
平成27年11月8日(日)、グループホームたちばなでは敷地内の畑でサツマイモの収穫をしました。
今年の6月に芋植えをして、ちょうど収穫時期になりました。
元気な利用者と職員が畑からたくさんのサツマイモを掘り出すのを他の利用者の方たちは見学しました。
とれたお芋はおやつにしたりお料理してみんなで食べることになっています。焼き芋にしたり、天ぷらにしたり、楽しみですね。
このあと、畑には玉ねぎやブロッコリーを植える予定です。
4施設合同ミニバレー大会が行われました
平成27年11月7日(土)、4施設合同ミニバレー大会が国富町中央体育館で行われました。
この大会は、毎年この時期に近隣の4施設―すなわち、さくら苑(国富町)、やすらぎの里(綾町)、芳生苑(宮崎市瓜生野)、裕生園(宮崎市高岡)―の職員が集まってミニバレーを行い、レクレーションとお互いの親睦を深めようと10年くらい前から開催しているものです。
持ち回りで幹事施設となり、今年は国富町のさくら苑が幹事でした。4施設から9チームが参加して、いい汗をかきました。最初はみなさん、ぎこちない動きだったのですが、段々、体も口も動きだして、手に汗にぎる好ゲームが続出しました。けがもなく、とてもいいリフレッシュが出来たと思います。幹事のさくら苑さん、ありがとうございました。
来年は、綾町のやすらぎの里がホストだということです。今から楽しみです。みなさん、また元気で会いましょう!
11月8日は「良い歯の日」
日本歯科医師会は、「いつまでも美味しく、そして、楽しく食事をとるために、口の中の健康を保っていただきたい」という願いを込めて、11/8を「良い歯の日」としました。厚生労働省とともに 1989年(平成元年)より「80歳になっても自分の歯を20本以上保とう」という「8020運動」を積極的に推進し、「良い歯の日」は、その 「8020運動」推進の一環です。
歯を健康に保つことが万病の予防になるというのは周知の事実だと思います。最近では虫歯予防のため、歯医者にかかる定期健診の重要性が云われており、先日ラジオでこの話題が取り上げられていました。定期健診を受けている人の割合が全国平均で約47%、宮崎県は約15%と低い水準。それに比例し「80歳で20本の歯」を保っている人の割合も、宮崎は低水準でした。
私は数年前まで年に2~3回受けていたのですが、最近は足が遠のいていました。11/8「良い歯の日」を機にまた健診を再開しようと思います。「おいしいものを自分の歯で食べる」普通のことかもしれませんが、長寿と健康維持にとても重要なことです。これから先のために、皆さんも定期健診を受けてみてはいかがでしょうか? (ホース)