社会福祉法人 信愛会

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2015年9月年

百寿荘で合同敬老会が行われました
投稿日:2015-09-19 施設名:信愛会からのお知らせ

 平成27年9月19日(土)、宮崎市高岡町小山田の老人福祉館「百寿荘」において、宮水流(みやづる)地区、下倉地区の老人クラブの皆さんと、日頃百寿荘を利用されているご利用者の皆さんとの合同敬老祝賀会が行われました。そして今回は麓(ふもと)地区の方々も参加され、スタッフも合わせて約100名の大変賑やかな会となりました。

 宮水流、下倉両地区の老人クラブの皆さんとは、養護老人ホーム長寿園が宮水流地区から浮田へ移転するまでは、毎年、長寿園と合同で敬老会を開催していました。昨年から、こうして百寿荘にご招待して、百寿荘のご利用者と一緒に敬老会をするようになりました。

 社会福祉法人信愛会による主催者挨拶、宮水流さんさんクラブの鬼塚会長のご挨拶のあと、いつも元気で楽しい「てげてげトリオ」の余興、会食、参加者の方々のカラオケ等が続き、楽しいひと時となりました。特に、参加者の方々によるカラオケでは、会を重ねるごとに段々力量が上がって来たように感じられました。合同敬老会や合同桜祭りで歌うことを目標に、それを励みにして日々練習されているのでしょう。次回も大変楽しみです。

高岡町宮水流、下倉、麓の老人クラブの皆さんと、百寿荘のご利用者との合同敬老祝賀会

いつも元気で楽しいてげてげトリオ。9月はあちこちの敬老会に引っ張りダコとのこと

高岡の三波春夫こと福田忠義さんが忠臣蔵の一場面を歌謡浪曲で熱演熱唱されました。お客さんの中には涙を拭いている人もいました

 

 

 

 

 

 

 

 

麓地区のみなさんの「青い山脈」の合唱。その他、飛び入りのカラオケやユーモラスな歌もあり、大変盛り上がりました

 

 

 

 

 

百歳おめでとうございます
投稿日:2015-09-18 施設名:ケアハウスシャトルからのお知らせ

平成27年9月18日(金)、ケアハウスシャトルのホールにて、今年百歳を迎えられた樋口綾子さんへの内閣総理大臣及び宮崎県知事からのお祝い状の伝達式が行われました。

お祝いに駆け付けた息子さん夫婦が見守る中、県職員からお祝い状と銀杯が手渡されました。樋口さんは「ありがとうございます」と笑顔であいさつをされていました。

その後、息子さん夫婦、県職員と一緒に記念写真を撮りました。

樋口さん、本当におめでとうございます。

 

 

県職員から内閣総理大臣、県知事のお祝い状を受けられる樋口さん。息子さん夫婦がお祝いに駆けつけてくれました

息子さん夫婦、県職員と一緒に記念撮影です

裕生園・シャトル・たちばな合同の敬老祝賀会が行われました
投稿日:2015-09-14 施設名:信愛会からのお知らせ

平成27年9月12日(土)、特別養護老人ホーム裕生園のホールにおいて、特養裕生園・ケアハウスシャトル・グループホームたちばな合同の敬老祝賀会が行われました。

この日は、さわやかな秋の好天に恵まれ、裕生園のホールに3施設のご利用者、そのご家族、ご来賓、そして職員スタッフが集まり、ご利用者の長寿をお祝いしました。

辰元信理事長のご挨拶、ご来賓からのお祝いの言葉、今年百歳を迎えられるお二人のご利用者のご紹介、祝電披露などがあり、後半は踊りや楽器演奏の余興がありました。

敬老祝賀会のあとの昼食会では、お祝いのお弁当が出され、ご利用者は久しぶりにご家族と会食をされていました。

 

特養裕生園のホールにおいて合同敬老祝賀会が行われました。挨拶する辰元理事長

千鶴の会による舞踊。ご利用者とそのご家族でホールは満員でした

今年もあーふクラブによる二胡の演奏がありました。日本の四季の童謡メドレーや中国の歌の演奏でした

裕生園ご利用者のお孫さん達によるギターとマリンバの演奏。生の楽器の音はいいですね。ありがとうございました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に全員で万歳三唱をして閉会しました

 

 

 

命を繋ぐボランティア
投稿日:2015-09-05 施設名:裕生園ブログ

今年の5月、自宅ににオレンジ色の大きな封書が届きました。差出人は日本骨髄バンクからでした。実は私は骨髄バンクにドナー登録しています。今まで定期的にニュースレターの入った小さな封書が届いていたのですが、オレンジ色の大きな封書は初めてでした。

いつもと全然違う雰囲気に包まれた封筒であったので開封するときに少し緊張しました。中身を確認すると案の定「ドナー候補者」に選ばれたと書いてありました。ドナー登録したのが2008年12月だったので6年半後の通知でした。あまりにも遅い通知だったので私のHLA型(白血球の型)と同じ人はこの世にいないのではないかと思うほどでした。

早速、中身を確認すると私のHLA型があった患者さんは「迅速コース」を希望されているとのことでした。早々に妻と二人の娘と両親に報告し、同意をもらおうとしたのですが、賛同してくれたのは長女だけでした。やはりドナーとしてのリスクを考えると賛同できないのは家族としては当然なのかもしれません。何とか妻を説得して問診票や諸々の書類を書いて返信しました。私はどこにいるともわからない型の合った患者さんの為に私の骨髄を提供出来るかもしれない、人ひとりの命を助けることができるかもしてないという熱い使命感を持っていました。

しかし、ここで勘違いしてはいけないのがあくまでも候補者の一人に選ばれただけであって、ドナーに選ばれたわけではないのです。数名の候補者がコーディネートを重ねていき最終的に1名が選ばれて骨髄提供となるのです。

結局私は昨年から毎日降圧剤を服用しているためコーディネートをすることなくお断りの書類が送られてきました。それまでの私の心の中で大きく膨らんでいた緊張感と使命感が心の中で一気にしぼんでいきました。

しかし、そんな時6年半前にドナー登録をした時の「一人でも多くの白血病で苦しんでいる人に助かってほしい」という気持ちを思い出しました。

どこの誰かは分かりませんがせっかく私と同じHLA型を持った人なので誰が提供しようと頑張って病気を克服して生きてほしいです。

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高木兼寛という人がいた⑧
投稿日:2015-09-02 施設名:信愛会ブログ

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)

 いよいよ兼寛は本格的に脚気に取り組んで行きますが、脚気とはそもそもどんな病気なのでしょうか。現代の私たちにはあまりなじみのない、もう克服されてしまった、古い時代の病気というイメージしかないと思います。しかし、兼寛が活躍した明治・大正の頃は、結核と並んで日本の国民病として恐れられていて、原因も治療法もわからない難病、奇病という扱いでした。症状としては、まず足がだるく、疲れやすくなる。更に手足がしびれ、動悸がし、食欲不振におちいり、足がむくむ。もっと病状が進むと、歩行も困難になって視力も衰え、突然、胸が苦しくなって心臓麻痺を起して死ぬ。短期間に死ぬので「三日坊」と呼ばれることもあったそうです。三代将軍家光、十三代家定、十四代家茂も脚気で亡くなったと言われています。

 現代医学では、脚気はビタミンB1の欠乏が原因と解明されています。体内で炭水化物(糖質)をエネルギーに換える際、このビタミンB1が重要な働きをします。そのためビタミンB1が不足するとエネルギー生産がうまくできなくなり、脳にも十分なエネルギーが行かなくなり、中枢神経、末梢神経に異常が生じて様々な症状となって現れて来ます。車に例えれば、燃料ばかり補給しても、その燃料を爆発させてエネルギーに換える際に重要な働きをする電気系統に異常があれば車は動きませんが、ビタミンB1欠乏はちょうど車の電気系統異常を引き起こすようなものと考えたらよいでしょうか。

 ビタミンB1を多く含む食品としては豚肉、レバー、うなぎ、豆類、玄米、胚芽米、麦などです。精白米は玄米から精製する過程でビタミンB1を失ってしまうため、白米ばかり食べて副食でビタミンB1を補わないと脚気になってしまいます。ビタミンB1は摂りだめができないので、毎日補うことが大切とされています。

 兼寛たちが脚気と格闘していた頃は、もちろんビタミンの存在もビタミンの働きもまだ世界中の誰にも知られていませんでした。だから、難病、奇病と言われていて、白米を主食とする日本人に多い国民病だったのです。こうした中で、兼寛は独自の研究と熱意で海軍から脚気を駆逐し、後のビタミン発見への大きな足掛かりを作って行くことになるのです。

 脚気への取り組みの中で、兼寛の前に様々な困難が立ちはだかりますが、それにたじろがず立ち向かって行くその情熱、気迫、覚悟を、吉村昭の『白い航跡』は見事に描いています。兼寛の数々の業績を単に羅列しただけでは伝わらない、兼寛の人間としての心の動きをリアルに描いています。その場の空気さえも再現する…小説というものの持つ素晴らしさですね。このブログでは、とても『白い航跡』の中身の再現はできませんが、『白い航跡』に沿って話を進めて行きます。統計的な数値も『白い航跡』で使われているものを主として参照して行きます。

 

 さて、イギリス留学から帰って来た頃の、兼寛が所属する海軍における脚気の猛威はすさまじく、明治11年(1878年)から海軍で行われている統計調査では次の表のような結果となっていました。

明治11年

(1878年)

明治12年

(1879年)

明治13年

(1880年)

明治14年

(1881年)

海軍の総兵員数

4,528

5,081

4,956

4,641

 脚気患者数

1,485

1,978

1,725

1,163

  割  合

32.80%

38.93%

34.81%

25.06%

海軍で猛威を振るう脚気

 

 そしてこの4年間の脚気による死亡者は146名に達していました。海軍病院で院長として毎日のように脚気患者に接している兼寛でしたが、一晩で4,5人が脚気で亡くなったこともありました。兼寛は何とかしなければ、の思いで過去のデータを徹底的に調査します。発病と季節の関係、患者の配属部署による違い、衣類、気温などなど。連日、おびただしい量の資料に目を通していたところ、注目すべき記録を発見します。それは明治8年にアメリカ、11年にオーストラリアへ練習航海が行われていたのですが、ハワイのホノルル、サンフランシスコ、シドニーなどに碇泊中には脚気の発症はなく、日本に帰ろうとする航海中に脚気患者が急増していたのです。これは何を意味するのでしょうか。もし、脚気が伝染病であるならば、外国の港に碇泊中も患者が発生してもよいのに、それは皆無です。乗組員たちは碇泊中、交替で上陸し、洋食を口にしていました。そして、航海中はもっぱら和食に戻ります。「脚気は食物に関係があるのではないか」と、兼寛は思い始めます。こうして兼寛は、脚気発生状況と食事との関連に焦点をしぼって徹底した調査に取り組んで行きます。

 そして、実際に海軍病院に入院している脚気患者を見てみると、患者は水兵に限られ、士官は極めて少ないことに気付きました。兼寛は食物の質に差があるのではないかと思い、水兵達の食事を調べてみると極めて粗末でした。これは、当時の海軍の兵食制度にも原因があって、海軍では主食の白米は現物支給で、副食は階級によって差のある金銭支給だったのです。水兵達はそのわずかばかりの金銭を副食の購入にあてないで、貯金したり故郷への仕送りにしたりしていました。そのため、水兵達の食事は白米ばかり多くて副食の貧しいものになっていたのです。

 こうしたことから、兼寛は脚気は食事に関係があるとの確信をますます深めます。そして、脚気患者が多く出る艦船や兵舎の水兵達の食物を調べると、タンパク質(肉、魚、豆など)が極めて少なく、炭水化物(白米)がはるかに多いことを突き止めます。こうして兼寛は、タンパク質が少なく、炭水化物が過多である場合に脚気におかされる、という確信をいだくことになるのです。
 ビタミンB1を知っている現代の私たちからすると、この兼寛の確信はピンポイントの正解ではないのですが、脚気細菌説、伝染病説を信奉する人がほとんどであった当時において、全く着眼点の異なる“食物の栄養バランス”に原因があることを確信する兼寛は、やはり凄いと言わざるを得ません。徹底的なデータ分析と医者としての本能的な察知力、言わば医療的“勘”の鋭敏さを兼寛が発揮したからだと言えます。その察知力や勘の鋭敏さも、兼寛の広くて深い学識、そして圧倒的に豊富な臨床経験に支えられてのものだったことは言うまでもありません。
 こうした確信を得た兼寛は海軍の「兵食改革」の必要性を強く感じるようになるのですが、この兵食改革の実現は並大抵のことではありませんでした。この実現には、海軍を戦慄させることになる2つの“事件”と兼寛の不屈の交渉力が必要でした。        (アッサン) 

 

グループホームたちばなで花火会をしました
投稿日:2015-09-01 施設名:たちばなからのお知らせ

平成27年8月28日(金)午後7時、たちばな2号館裏のテラスで、たちばな利用者の皆さんは手持ち花火を楽しみました。
空に大きく打ちあがる花火とはまた違って、手元で小さい可愛らしい火花を散らす手持ち花火も趣きがありました。
暑さのピークも過ぎ、朝夕だいぶ涼しくなって来ましたが、往く夏を惜しむ花火会でした。
来年もまた、行えたらと思います。

 

たちばな2号館裏のテラスにみなさん集まって花火会をしました

線香花火も趣きがありますね

来年もまた行いたいですね

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