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2015年3月年
運動、頑張っています。in 長寿園。
長寿園では、身体機能の維持や向上の為に様々な運動を行っています。
月に1回の辰元病院からPT(理学療法士)が来られ、機能訓練の指導を行う『PT指導』、
毎週、職員が立ち上がりや手足などの運動を行う『リハビリ訓練』を行っています。
『PT指導』の1場面です。利用者がPT(理学療法士)の動きを見て、体を動かしています。
『リハビリ訓練』の1場面です。廊下中の手すりを使って、立ち上がりの運動を行っています。
(『リハビリ訓練』)腕を上げた状態で数を数えながら、指を動かしています。
自分の身体が自分でしっかりと動かせるのは、幸せな事です。
私も利用者を見習って、身体を動かしていきたいと思いました。
このブログを見られた方々、定期的に運動できていますか?(^ロ^)
(SMSA)
春が来ました!(^^)!
3月も下旬となり暖かくなってきたこの頃です!施設では生花があり利用者の方々と生花をしました。春らしい綺麗なお花を花器にいけて春を楽しみました。また利用者の方々と施設の外に出て散歩をしました。この日はとてもお天気が良くて青空の下施設の周りに咲いている桜を見て「春が来たね」と笑顔で会話される姿が見られて嬉しく感じました。
A☆3104
たん吸引のフォローアップ研修を行いました
平成27年3月25日(水)、特別養護老人ホーム裕生園ホールにおいて、特養裕生園、ケアハウスシャトル、グループホームたちばなの職員が参加してたん吸引の研修を行いました。
裕生園は、認定証を取得した介護職員等が一定の条件のもとたん吸引を行うことができる「特定行為事業者」として登録されていますが、安全確保のためフォローアップ研修を継続して行うことが求められています。
この日は、指導看護師の指導のもと、たん吸引の基本について職員をモデルに実地研修を行いました。今後もこうした研修を継続して行って、介護職員の専門性の維持向上を図って行きます。
ふれあい合同レクリエーション
皆様のご協力のもと無事にふれあい合同レクリエーションを終えることができました。
家族合同でレクリエーションを行うことにより、ご利用者様やご家族様の普段なかなか見られないような笑顔を見ることが出来ました。
また、今回は職員とご家族対抗の試合もあり、和気藹藹とした雰囲気が今までより多くの信頼関係を築く事が出来たと思います。
お忙しい中参加していただきましてほんとうにありがとうございました。
高岡デイサービスセンターは4月から土曜日もオープンします
宮崎市高岡町小山田にある高岡デイサービスセンターが、4月から土曜日もオープンすることになりました。
高岡デイサービスセンターは、平成26年度から社会福祉法人信愛会が宮崎市から指定管理を委託されているのですが、これまでは月曜日から金曜日までの営業でした。
4月から土曜日もオープンすることで、在宅での介護に対する支援を強化し、ご利用者及びご家族にとって更に便利なサービスの提供に努めてまいります。
高木兼寛という人がいた⑤
(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)
名医として評判の高かったイギリス人医師ウィリアム・ウィリスが鹿児島に招かれ、新設された鹿児島医学校兼病院の校長兼病院長となり、高木兼寛もそこの学生となります。医学と英語を勉強しめきめきと力をつけて行った高木はウィリスに見いだされ、教授及び手術助手として抜擢されます。名医ウィリスから実地に指導を受けたことがその後の高木の躍進に大きく影響を与えたと言っていいでしょう。
ところで、高木が最初に鹿児島に来たときの先生だった石神良策は、その頃東京にいて、海軍病院の医務担当をしていました。そして高木を海軍病院の医員として推挙した旨の手紙を高木に送って来ます。鹿児島で充実した日々を送っていた高木は戸惑いますが、ウィリスの後押しもあり、東京行きを決断します。
明治5年、兼寛24歳。東京の海軍病院での勤務が始まりました。当時の日本の医学界は完全にドイツ医学になっていましたが、海軍だけは軍制の範をイギリスにとっていたので、海軍の軍医もイギリス医学を受け入れる方向にありました。そして海軍独自の教育方法によって軍医を養成すべきだということになり、海軍病院内に学校を設けます。そしてイギリスから学力、人柄ともに優れた医師を教官として招くことになりました。それがウィリアム・アンダーソンという若き医師で、イギリスで最も古い由緒あるセント・トーマス病院附属医学校を優秀な成績で卒業した人でした。
このアンダーソンとともに海軍病院で勤務していた高木は、上官の石神良策からまたもや重大な転機となる提案を受けます。「イギリスへ留学しないか?」高木をイギリスに留学させることは石神にとっての悲願でした。また、アンダーソンも、医者としての技量も英語力も抜群だった高木を推薦していました。海軍省は高木のイギリス留学を認め、アンダーソンが母校のセント・トーマス病院に連絡を取り、高木が入学できるように取りはからってくれ、推薦状も書いてくれました。高木は官費留学生としてイギリスに行くことになったのです。
留学の準備をしていた高木にとって大変悲しい事が起きました。恩師であり上官である石神良策が急に倒れてそのまま帰らぬ人となったのです。この石神という人は不思議な人で、常に兼寛の一歩先を歩いていて、高木を引き上げて新しい世界へ導く人でした。石神は高木が初めて鹿児島に来た時の先生(蘭方医)でしたが、戊辰戦争の時も兼寛よりも早く戦場に入っていて、戦場で再会し、名医ウィリアム・ウィリスのことを兼寛におしえ、鹿児島にそのウィリスを招いて高木がその指導を受けられるようにしたのもこの人。高木を東京の海軍病院に呼び寄せたのも石神で、イギリス留学を実現させたのもこの人でした。また、結婚の世話もしてくれたのでした。石神は高木をイギリスへ留学させるという自分の悲願を達成したことで、自分の役目は終わったと思ったのでしょうか。ここまで自分の教え子のことを思う師もすごいし、またそこまで師を本気にさせる高木という教え子も大変な逸材だったということでしょう。
明治8年(1875年)、27歳の兼寛はイギリスの地を踏みます。当時のイギリスはヴィクトリア女王の時代で、世界の文物の最先端を行く大英帝国の最盛期でした。その世界帝国の首都ロンドンのど真ん中にセント・トーマス病院はありました。大きな病院で、テムズ川に面し、対岸には英国国会議事堂であるウェストミンスター宮殿があり、時計台のビッグベンが見えました。5年間の留学期間中、毎日のように兼寛はビッグベンを見、その鐘の音を聞いたことでしょう。(アッサン)
(下の4枚の写真は当辰元グループ辰元病院院長川﨑渉一郎氏の宮崎市郡医師会会報『醫友しののめ』145,146,147号への寄稿文「高岡町出身、明治の英傑…高木兼寛の足跡を辿る旅」より)
家族とのふれあい合同レクリエーション開催について
「ふれあい合同レクリエーション」を平成27年3月22日9時30分~開催いたします
ご多忙中とは存知ますが、ご家族様は奮ってご参加下さいますようお願い致します。
かわいいひな祭り行事食
今日は3月3日、ひな祭りの日でした。
毎年恒例のひな寿司が出され、利用者の皆さんにとって楽しい昼食となりました。
こうした行事食によって季節の移り変りを実感することができます。
もうすぐ春本番ですね。