社会福祉法人 信愛会

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高木兼寛という人がいた⑨
投稿日:2015-11-16 施設名:信愛会ブログ

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)
 脚気の原因は食物の栄養バランスにある、具体的にはタンパク質が極度に少なく炭水化物が過多の場合に脚気におかされる、ということを、兼寛は過去のデータの徹底的な分析、海軍病院での脚気患者の診察、水兵たちの食事の質の観察で確信します。病気といえば細菌、または何らかの毒によるもの、という発想がほとんどであった当時、この兼寛の“脚気の原因は食物の栄養バランス”という説は、この説に基づくその後の実績と相伴って、世界の医学史の中で非常に革命的なインパクトを与えるものであって、のちのビタミン学誕生の大きなきっかけとなるのですが、兼寛本人にその意義の重大さの自覚が当時あったかどうかはわかりません。兼寛としては、ただただ、脚気を何とかしたいの一心で、あらゆる先入観なしに、データを分析し、患者と向き合い、観察に徹した結果の確信だったと思います。
 さて、この頃、明治15年(1882年)、日本海軍を震撼させる事件が起こります。朝鮮で京城事変(壬午じんご事変)というものがあり、この時、日本の軍艦が初めて外国に出動しました。当時、朝鮮の王室内では革新派と保守派の対立があり、革新派は日本に、保守派は清国に接近していました。ついに両派の衝突が起こり、保守派が革新派の邸を襲い、革新派が招いていた日本人の軍事顧問ら数名を殺害、さらに日本公使館を襲撃しました。日本政府は在留邦人保護の目的で、日本海軍の主力軍艦5隻を現在の仁川近くの湾に派遣、清国も日本側を牽制するために当時の世界有数の巨艦3艦を派遣。同じ湾内で緊迫したにらみ合いとなります。両国艦隊の武力衝突も場合によっては予想されました。
 この時、日本の5隻の軍艦内では大変なことが起こっていました。脚気です。多数の脚気患者が発生し、艦内では患者が身を横たえ、死亡する者も出ていました。もしも清国との間で武力衝突が起きたら、戦闘に応じる人員はわずかで、日本側が全滅することは明らかでした。日本側は、このような状態にあることを清国側に気付かれないようにすることに必死でした。幸い、日本と朝鮮政府との間に条約が結ばれ、清国の軍艦は去り、日本の軍艦も仁川を離れて日本に帰って来ました。
 これは日本海軍にとって大きな衝撃でした。一大危機と言えます。いくら軍艦等の装備を充実させても、兵士が脚気で倒れて戦闘能力を発揮できなければ、全く意味をなしません。国家存亡にかかわって来ます。
 海軍病院に運びこまれた兵士たちを見て回った兼寛は、上司の戸塚海軍医務局長に自説を訴えます。食物と脚気の関係について調査・研究を行った結果、タンパク質と炭水化物の異常な比率が脚気発病の原因と確信するに至ったことを述べ、そして、兵食を洋食に切り替えることを戸塚局長に提案します。
 それに対して戸塚は難色を示します。その提案は海軍兵食制度の基本にかかわることだから、実行は非常に難しいだろう、と。金銭支給を廃止すれば、食費を貯蓄や仕送りに回している兵士たちの不満が出るおそれがあること。パンを主食とする洋食には兵士たちは慣れていないのでいやがるだろうこと。洋食は経費がかかり、海軍の予算にもかかわってくること。
 兼寛はなおも兵食改革の必要性を訴え、結局、川村海軍卿(大臣)に上申することになりました。川村海軍卿は京城事変の際の脚気多発に衝撃を受けていたので、戸塚と兼寛からの上申を受け、海軍首脳者による将官会議を開き、そこに兼寛も呼んで上申書の趣旨を説明させました。兼寛は自説を展開。将官達は強い危機感をもち、長時間の協議を続けました。やがて意見がまとまり、結論が下されましたが、兼寛にとっては失望させるような内容でした。「将来、兵食の金銭支給を廃し、食物そのものを与えるよう改正することを、ほぼ内定する。海軍病院において数名の脚気患者に洋食を与えて実験する。」兼寛は、兵食改革は急務であると訴えたのに、「将来」とされ、しかも「ほぼ内定」という曖昧な表現になっていました。また、洋食による実験も上申案よりはるかに規模の小さいものとなっていたのです。
 海軍省の遅々とした動きに焦燥感を抱いた兼寛は、政府部内で強い発言力をもつ人物たちに直接訴えるしかない、と思うようになります。そして実際に時の左大臣有栖川宮(ありすがわのみや)の側近を通して宮との面談を懇願し、それが認められ、宮に直接自説を披露する機会を持つことができました。海軍の兵食を洋食にすることが急務であることを申しあげ、予算の増大について大蔵卿その他の方々に何かの折に働きかけてほしい旨を宮にお願いしました。
 このように兼寛が兵食改革の必要性について焦燥感をもって海軍上層部や政府部内の有力者に働きかけていた頃、海軍を戦慄させるもう一つの事件が起きました。明治15年12月に太平洋に練習航海に出ていた軍艦『龍驤(りゅうじょう)』が翌明治16年9月に日本に帰って来たのですが、ここでも脚気被害が大変なことになっていました。乗組員378名中、169名が脚気におかされ、しかも23名が死亡していたのです。この報告を聞いた海軍の高官達はいよいよ深刻な危機感を抱くようになり、兼寛も「わが海軍は脚気のために滅亡してしまう」と、兵食改革の訴えにますます奮闘して行きます。                (アッサン)

太平洋への練習航海で乗組員378名中、169名の脚気患者、
23名の死者を出した練習艦『龍驤(りゅうじょう)』
(Wikipediaより)
 

11月8日は「良い歯の日」
投稿日:2015-11-06 施設名:たちばなブログ

日本歯科医師会は、「いつまでも美味しく、そして、楽しく食事をとるために、口の中の健康を保っていただきたい」という願いを込めて、11/8を「良い歯の日」としました。厚生労働省とともに 1989年(平成元年)より「80歳になっても自分の歯を20本以上保とう」という「8020運動」を積極的に推進し、「良い歯の日」は、その 「8020運動」推進の一環です。

歯を健康に保つことが万病の予防になるというのは周知の事実だと思います。最近では虫歯予防のため、歯医者にかかる定期健診の重要性が云われており、先日ラジオでこの話題が取り上げられていました。定期健診を受けている人の割合が全国平均で約47%、宮崎県は約15%と低い水準。それに比例し「80歳で20本の歯」を保っている人の割合も、宮崎は低水準でした。

私は数年前まで年に2~3回受けていたのですが、最近は足が遠のいていました。11/8「良い歯の日」を機にまた健診を再開しようと思います。「おいしいものを自分の歯で食べる」普通のことかもしれませんが、長寿と健康維持にとても重要なことです。これから先のために、皆さんも定期健診を受けてみてはいかがでしょうか? (ホース)

秋の運動会開催in長寿園(^-^)
投稿日:2015-10-31 施設名:長寿園ブログ

10月15日(木)に長寿園の運動会(レクリエーション大会)を開催しました。

 

    

 

利用者さんを2チーム(青団)と(赤白団)に分けて競い合いました。

※はちまきの数の関係上、このような色の分け方になりました。

 

競技① ホールインワン

グランドゴルフのスティックでボールを打ち、ボールがポール下の円の中に入る、

又は通過すれば、ポイントになります。(4球勝負)

 

  

 

競技② ボウリング

ピンの代わりに大きなペットボトルを多く倒した方が勝ちになります。

(ピンの数は10本)

 

競技③ ポケネット

ボールをネットのかごに多く入れた方が勝ちになります。(4球勝負)

 

 

競技④ 黒棒(ミニパン)食い競争

団の勝ち負けは関係なく、黒棒やミニパンを食べる為に頑張ります。

 

    

 

今年もどの競技でも「入った~!」「惜しい、残念。」等の歓声が聞かれました。

昨年に引き続き、黒棒(ミニパン)食い競争では、職員も参加しての大盛り上がりで、

利用者さんや職員のたくさんの笑顔を見る事が出来ました。

来年もたくさんの笑顔が見られる様に利用者さんと一緒に

日々の生活の中での運動を続けていきたいと思います。

(SMSA)

近況報告☆
投稿日:2015-10-09 施設名:裕生園ブログ

朝・晩が肌寒くなってきましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

今日は裕生園ゆうゆうユニットの近況報告をしたいと思います!

先月のことになりますが、9月13日の夜に職員と利用者様数名とで花火をしました。

夏祭りではうちあげ花火を観ることが出来ましたが、手持ち花火は今回初めての試み。

実際に自身の手に持って楽しむ方、その様子を観て楽しむ方、皆さんの目がとても輝いていました=*^-^*=

利用者様の中には数十年ぶりの手持ち花火だった方もおられ、「綺麗だったねえ」とたいへん喜ばれていました。

またひとつ、利用者様との思い出ができました!

これからも利用者様の笑顔がたくさん見ることができるよう、職員一同頑張っていきたいと思います\(^▽^)/

少しずつ寒さが増してきます。皆様風邪などひかぬよう、お気を付けください!   (麻)

 

 

 

 

命を繋ぐボランティア
投稿日:2015-09-05 施設名:裕生園ブログ

今年の5月、自宅ににオレンジ色の大きな封書が届きました。差出人は日本骨髄バンクからでした。実は私は骨髄バンクにドナー登録しています。今まで定期的にニュースレターの入った小さな封書が届いていたのですが、オレンジ色の大きな封書は初めてでした。

いつもと全然違う雰囲気に包まれた封筒であったので開封するときに少し緊張しました。中身を確認すると案の定「ドナー候補者」に選ばれたと書いてありました。ドナー登録したのが2008年12月だったので6年半後の通知でした。あまりにも遅い通知だったので私のHLA型(白血球の型)と同じ人はこの世にいないのではないかと思うほどでした。

早速、中身を確認すると私のHLA型があった患者さんは「迅速コース」を希望されているとのことでした。早々に妻と二人の娘と両親に報告し、同意をもらおうとしたのですが、賛同してくれたのは長女だけでした。やはりドナーとしてのリスクを考えると賛同できないのは家族としては当然なのかもしれません。何とか妻を説得して問診票や諸々の書類を書いて返信しました。私はどこにいるともわからない型の合った患者さんの為に私の骨髄を提供出来るかもしれない、人ひとりの命を助けることができるかもしてないという熱い使命感を持っていました。

しかし、ここで勘違いしてはいけないのがあくまでも候補者の一人に選ばれただけであって、ドナーに選ばれたわけではないのです。数名の候補者がコーディネートを重ねていき最終的に1名が選ばれて骨髄提供となるのです。

結局私は昨年から毎日降圧剤を服用しているためコーディネートをすることなくお断りの書類が送られてきました。それまでの私の心の中で大きく膨らんでいた緊張感と使命感が心の中で一気にしぼんでいきました。

しかし、そんな時6年半前にドナー登録をした時の「一人でも多くの白血病で苦しんでいる人に助かってほしい」という気持ちを思い出しました。

どこの誰かは分かりませんがせっかく私と同じHLA型を持った人なので誰が提供しようと頑張って病気を克服して生きてほしいです。

<310>

高木兼寛という人がいた⑧
投稿日:2015-09-02 施設名:信愛会ブログ

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)

 いよいよ兼寛は本格的に脚気に取り組んで行きますが、脚気とはそもそもどんな病気なのでしょうか。現代の私たちにはあまりなじみのない、もう克服されてしまった、古い時代の病気というイメージしかないと思います。しかし、兼寛が活躍した明治・大正の頃は、結核と並んで日本の国民病として恐れられていて、原因も治療法もわからない難病、奇病という扱いでした。症状としては、まず足がだるく、疲れやすくなる。更に手足がしびれ、動悸がし、食欲不振におちいり、足がむくむ。もっと病状が進むと、歩行も困難になって視力も衰え、突然、胸が苦しくなって心臓麻痺を起して死ぬ。短期間に死ぬので「三日坊」と呼ばれることもあったそうです。三代将軍家光、十三代家定、十四代家茂も脚気で亡くなったと言われています。

 現代医学では、脚気はビタミンB1の欠乏が原因と解明されています。体内で炭水化物(糖質)をエネルギーに換える際、このビタミンB1が重要な働きをします。そのためビタミンB1が不足するとエネルギー生産がうまくできなくなり、脳にも十分なエネルギーが行かなくなり、中枢神経、末梢神経に異常が生じて様々な症状となって現れて来ます。車に例えれば、燃料ばかり補給しても、その燃料を爆発させてエネルギーに換える際に重要な働きをする電気系統に異常があれば車は動きませんが、ビタミンB1欠乏はちょうど車の電気系統異常を引き起こすようなものと考えたらよいでしょうか。

 ビタミンB1を多く含む食品としては豚肉、レバー、うなぎ、豆類、玄米、胚芽米、麦などです。精白米は玄米から精製する過程でビタミンB1を失ってしまうため、白米ばかり食べて副食でビタミンB1を補わないと脚気になってしまいます。ビタミンB1は摂りだめができないので、毎日補うことが大切とされています。

 兼寛たちが脚気と格闘していた頃は、もちろんビタミンの存在もビタミンの働きもまだ世界中の誰にも知られていませんでした。だから、難病、奇病と言われていて、白米を主食とする日本人に多い国民病だったのです。こうした中で、兼寛は独自の研究と熱意で海軍から脚気を駆逐し、後のビタミン発見への大きな足掛かりを作って行くことになるのです。

 脚気への取り組みの中で、兼寛の前に様々な困難が立ちはだかりますが、それにたじろがず立ち向かって行くその情熱、気迫、覚悟を、吉村昭の『白い航跡』は見事に描いています。兼寛の数々の業績を単に羅列しただけでは伝わらない、兼寛の人間としての心の動きをリアルに描いています。その場の空気さえも再現する…小説というものの持つ素晴らしさですね。このブログでは、とても『白い航跡』の中身の再現はできませんが、『白い航跡』に沿って話を進めて行きます。統計的な数値も『白い航跡』で使われているものを主として参照して行きます。

 

 さて、イギリス留学から帰って来た頃の、兼寛が所属する海軍における脚気の猛威はすさまじく、明治11年(1878年)から海軍で行われている統計調査では次の表のような結果となっていました。

明治11年

(1878年)

明治12年

(1879年)

明治13年

(1880年)

明治14年

(1881年)

海軍の総兵員数

4,528

5,081

4,956

4,641

 脚気患者数

1,485

1,978

1,725

1,163

  割  合

32.80%

38.93%

34.81%

25.06%

海軍で猛威を振るう脚気

 

 そしてこの4年間の脚気による死亡者は146名に達していました。海軍病院で院長として毎日のように脚気患者に接している兼寛でしたが、一晩で4,5人が脚気で亡くなったこともありました。兼寛は何とかしなければ、の思いで過去のデータを徹底的に調査します。発病と季節の関係、患者の配属部署による違い、衣類、気温などなど。連日、おびただしい量の資料に目を通していたところ、注目すべき記録を発見します。それは明治8年にアメリカ、11年にオーストラリアへ練習航海が行われていたのですが、ハワイのホノルル、サンフランシスコ、シドニーなどに碇泊中には脚気の発症はなく、日本に帰ろうとする航海中に脚気患者が急増していたのです。これは何を意味するのでしょうか。もし、脚気が伝染病であるならば、外国の港に碇泊中も患者が発生してもよいのに、それは皆無です。乗組員たちは碇泊中、交替で上陸し、洋食を口にしていました。そして、航海中はもっぱら和食に戻ります。「脚気は食物に関係があるのではないか」と、兼寛は思い始めます。こうして兼寛は、脚気発生状況と食事との関連に焦点をしぼって徹底した調査に取り組んで行きます。

 そして、実際に海軍病院に入院している脚気患者を見てみると、患者は水兵に限られ、士官は極めて少ないことに気付きました。兼寛は食物の質に差があるのではないかと思い、水兵達の食事を調べてみると極めて粗末でした。これは、当時の海軍の兵食制度にも原因があって、海軍では主食の白米は現物支給で、副食は階級によって差のある金銭支給だったのです。水兵達はそのわずかばかりの金銭を副食の購入にあてないで、貯金したり故郷への仕送りにしたりしていました。そのため、水兵達の食事は白米ばかり多くて副食の貧しいものになっていたのです。

 こうしたことから、兼寛は脚気は食事に関係があるとの確信をますます深めます。そして、脚気患者が多く出る艦船や兵舎の水兵達の食物を調べると、タンパク質(肉、魚、豆など)が極めて少なく、炭水化物(白米)がはるかに多いことを突き止めます。こうして兼寛は、タンパク質が少なく、炭水化物が過多である場合に脚気におかされる、という確信をいだくことになるのです。
 ビタミンB1を知っている現代の私たちからすると、この兼寛の確信はピンポイントの正解ではないのですが、脚気細菌説、伝染病説を信奉する人がほとんどであった当時において、全く着眼点の異なる“食物の栄養バランス”に原因があることを確信する兼寛は、やはり凄いと言わざるを得ません。徹底的なデータ分析と医者としての本能的な察知力、言わば医療的“勘”の鋭敏さを兼寛が発揮したからだと言えます。その察知力や勘の鋭敏さも、兼寛の広くて深い学識、そして圧倒的に豊富な臨床経験に支えられてのものだったことは言うまでもありません。
 こうした確信を得た兼寛は海軍の「兵食改革」の必要性を強く感じるようになるのですが、この兵食改革の実現は並大抵のことではありませんでした。この実現には、海軍を戦慄させることになる2つの“事件”と兼寛の不屈の交渉力が必要でした。        (アッサン) 

 

恒例、シャトル花火会
投稿日:2015-08-28 施設名:シャトルブログ

皆様、こんばんわ

最近、朝晩がだいぶ涼しくなったような気がします。

さて、ケアハウス シャトルでは毎年恒例のシャトル花火会を行いました。

最後の夏の思い出として、参加された皆様一様に楽しまれておりました。

ただ、手持ち花火の煙がすごくて皆様・・・来年は考えないといけませんな~

 

ルーニー 改め ファンキー・アフロ

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏だ!祭りだ!わっしょい!
投稿日:2015-08-13 施設名:裕生園ブログ

こんにちは(^^)暑い日が続いていますが、みなさん体調の方は大丈夫でしょうか?裕生園の恒例の夏祭りが8月15日(土)開催です。また全国高校野球選手権大会が兵庫県の甲子園球場で行われていますが、選手のみなさん父兄のみなさんは手に汗握りながらの応援だと思います。今年も裕生園では利用者方々で優勝校予想クイズとしてベスト8が揃ってから開催のボード作りました。宮崎は残念ながら1回戦で負けてしまいましたが最後まで応援したいと思います。 A☆3104

こんにちは!!ことぶきユニットです。
投稿日:2015-08-04 施設名:裕生園ブログ

こんにちは!!裕生園ことぶきユニットです。

みなさん暑い中いかがお過ごしですか?全国的に猛暑となる日が続いていますが、テレビでも最高気温の県市町名や熱中症のニユースが尽きません。ことぶきユニットでは、熱中症予防を兼ねて週2回程、喫茶を行っています。利用者の方々からのリクエストでたくさんのメニューがあり、その中から利用者様に好きな飲み物を選んで頂き提供を行っています。水分摂取目的で行った喫茶ですが、いつもとは違った利用者様の表情が見られます。

浮田地区の夏祭りに参加しました。
投稿日:2015-07-27 施設名:長寿園ブログ

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今月19日に開催された浮田地区の夏祭りに、利用者さんと参加させてもらいました。

当日の天気は雨だったので、公民館内で催し物が行われました。

梅雨時期の長雨で気が滅入っていた利用者さんも

和太鼓と盆踊りを見学して、とても喜ばれていました。

前回参加した時は天気が良く、屋外で見学しましたが、今回はあいにくの雨でした。

その為、祭りに参加されている人達が公民館の玄関に集まるので、

職員だけでは移動が難しかったのですが、

浮田地区の方の協力もあり、安全に移動する事が出来ました。

浮田地区の皆さん、ありがとうございました。

長寿園のあるこの浮田地区の皆さんともっともっと交流を行って行きたいと思いますので、

今後もよろしくお願いいたします。

辰元グループ夏祭りまであと1ヶ月!!
投稿日:2015-07-14 施設名:裕生園ブログ

梅雨がなかなか明けませんが、全国的に猛暑日となったところも多く、今日はたいへん暑くなりました。さて、毎年恒例の辰元グループ夏祭りまで残すところ1ヶ月となりました。今日は夏祭りのポスター選考会が行われました。今年の出品作は出来映えのよいポスターが多く、選考に時間がかかりましたが、2枚のポスターが今年の「辰元グループ夏祭りフェスタ2015」のポスターに選ばれました!!

高岡町内の商店等に掲示されますので、ご覧下さい。

高木兼寛という人がいた⑦
投稿日:2015-07-10 施設名:信愛会ブログ

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)
 明治13年(1880年)11月、兼寛は5年の英国留学を終えて日本に帰って来ました。兼寛のイギリスでの抜群の成績は既に日本にも伝えられていたので、海軍医務局は喜びとともに今後の彼の活躍への期待をもって兼寛を迎えました。兼寛は31歳の若さで海軍病院の院長に任命されます。

 イギリスにおける外科、産科、内科の医師資格と外科教授の資格を得て日本に帰って来た兼寛。彼がそこに見たものは何だったでしょう。それは、日本の医学界が海軍を除いてドイツ医学一色に染まっていたことでした。明治の初めに、これからの日本の医学の範をドイツ医学に取ると日本政府が決めたので、ドイツ医学がいわば“官学”になっていました。当時、唯一の大学であった東京大学の医学部も当然ドイツ医学を採用し、ドイツ人の医学教授を招き、ドイツ語で授業が行われていました。

 明治維新を経て、後発国として必死な思いで西洋化を推進していた日本。医学に関しても、どこかの国をモデルとして追いかけて行くことが、医学を急速に発展させて行く近道です。それがドイツでした。当時のドイツはコッホに代表されるように、細菌学の分野で隆盛期を迎えていて、世界の医学界の中でも抜きん出た存在となっていました。どこか一つの国をモデルとして選ばなければならないとしたら、ドイツという選択も決して間違いではなかったと思います。

 ただ、問題は、政府がドイツ医学を採用し、いわば“官学”となったために、ドイツ医学が“官”の権威を持つようになってしまったことです。「ドイツ医学に非ざれば、医学に非ず」というような風潮が生じて来ました。これは、現代の私達の感覚からすると奇異な感じがします。医学も含め、科学というものは普遍的なもので、どこか一つの国のものが正で、それ以外のものは否、というものではないでしょう。確かに、国によってアプローチの仕方や得意分野などに違いはあるでしょう。しかし、ドイツ医学といい、イギリス医学といい、最終的には医学という大河に流入して行くもの。ドイツやイギリス本国ではお互いの国の医学上の成果を尊重し、それを取り入れ、それが更なる発展につながっていたでしょう。それが日本に輸入されると、まるで“宗派”の争いのようになってしまい、感情的になり、そのため純粋に科学的なものの見方が出来なくなってしまうようなのです。

 イギリスで一流の医者としての知識と技量を身に着けて帰国した兼寛が、こういう状況の日本の医学界、医療界を見た時、兼寛には自分のやらなければならない課題が見えて来ました。そして実にたくさんのことを成し遂げて行くのですが、ここでは次の4つのことを挙げるにとどめます。
1.医学校をつくる。
 当時の日本の主流であったドイツ医学は学問的な研究を重視し、研究室で試験管と顕微鏡を使って病原を追究して行くというスタイルが特徴で、基礎医学に強みがあった。
 一方、兼寛が学んだイギリスでは、臨床を重視し、いかに患者と向き合い患者を治していくか、という極めて実際的な医療が中心。机上の学問としての医学、あるいは研究室の医学ではなく、それをどう実際の患者の治療に応用して行くか、に重点を置いていた。兼寛はこうした臨床重視の学校をつくることにより、一般の人々の病気や怪我の治療ができる有用な医者をたくさん世に送り出したいと考えた。
2.病院をつくる。
 兼寛が留学したイギリスのセント・トーマス病院はイギリスで最も古くからある病院で、貧しい人を無料で受け入れる“施療(せりょう)病院”でもあった。そのための経済的支援をイギリス王室から受けていて、王室との結びつきの強い病院だった。兼寛は貧しい人を無料で診るこうした施療病院を日本にもつくりたいと思った。
3.看護婦教育所をつくる。
 セント・トーマス病院で兼寛が感銘を受けたことの一つに、病院での看護婦の見事な働きぶりがあった。医学知識を身に着け、人間性にも優れた看護婦たちが医師の手足となってかいがいしく働いている姿。それもそのはず。セント・トーマス病院内にはあのナイチンゲールが創設した看護婦養成学校があり、兼寛が留学した頃は、まだナイチンゲールは存命中で、セント・トーマス病院の看護婦たちはナイチンゲールの精神を受け継いだ女性達だった。兼寛は「医師と看護婦は車の両輪」という考えを持っていた人で、このような看護婦教育所を日本につくりたいと思った。
4.脚気に本気で取り組む。
 兼寛にとっての生涯をかけてのテーマ。イギリス留学前、海軍病院に勤務していた頃からずっと気に掛かっていた未解決の問題。イギリス留学中も頭にあった。そして、イギリスで大きなヒントを得る。それは、日本であんなに恐れられていた脚気が、イギリスでは全く見られないこと。イギリスの医師も脚気について全く知らず、関心もない。これは後に、脚気が細菌から来るものなのか、それ以外に原因があるのかを考える際に一つの大きなヒントになって行く。

 以上、兼寛の取り組みを4つ挙げましたが、そのいずれもが実現し、今日までその成果が続いています。1の医学校については、成医会講習所を創設し、それは今日の東京慈恵会医科大学に発展しています。2の病院については、有志共立東京病院を開設し、それは今日の東京慈恵会医科大学附属病院へ、3の看護婦教育所については、有志共立東京病院看護婦教育所を開設し、それは今日の慈恵看護専門学校へとつながっています。これらはそれぞれにその創立とその後の展開について大変興味深い歴史、エピソードがあり、それだけで物語になりそうです。興味のある方は、講談社文庫の吉村昭著『白い航跡』や東京慈恵会医科大学の松田誠名誉教授の一連の文章を読まれることをお薦めします。松田誠名誉教授の文章はインターネットから見ることができます。
 4の脚気への取り組みについて。この脚気への取り組みを通して、兼寛はビタミン発見への道を大きく切り開いて行くことになります。そして、世界でビタミン学を学ぶ人がいる限り、高木兼寛(Kanehiro Takaki)の名前はこれからも記憶されて行くでしょう、それほどのインパクトのある業績を成し遂げることになります。
 いよいよヤマ場に差しかかって来ました。果たしてこのブログがそのテーマの重量に耐えられるかどうか心配ですが、高木兼寛の奮闘のほんの一部分だけでもお伝えしたいと思います。                    

イギリスのセント・トーマス病院の敷地内にあるナイチンゲール・ミュージアムの玄関。セント・トーマス病院内にはナイチンゲール創設による看護婦養成学校があり、兼寛が留学していた頃、ナイチンゲールはまだ存命中だった(辰元病院院長川﨑渉一郎氏撮影)

ナイチンゲールの胸像(川﨑氏撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(アッサン)

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