社会福祉法人 信愛会

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HAPPY HALLOWEEN(裕生園)
投稿日:2020-10-30 施設名:裕生園ブログ

いつの間にか秋も深まってきました。
通勤中に見える、色鮮やかなコスモスは
朝から元気を分けてくれます。

゛新型コロナにまけるな”
゛みんなでのりこえよう”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私事ですが、入職し、2年3ヶ月が経ちました。

利用者様の生活に寄り添い、過行く日々の中で
~食を通じて、できることがあるのでは~
と考え、企画した“おやつづくり”。
去年の12月から取り組みはじめて、もうすぐ1年経ちます。
利用者様をはじめ、たくさんの方々からお力添えをいただき、
今では、月1回の行事になってきたことを、とても嬉しく、有難く思います。

おやつづくりをはじめた頃

令和2年10月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明日はHALLOWEEN
ということで、今日は職員も仮装をしてみました♪


 

 

 

 

 

 

 

 

~お昼の清掃・消毒作業中~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これからも皆様との毎日を楽しく過ごしていきたいと思います。【おこめ】

野村郁奈子さんが宮崎県社会福祉協議会会長表彰を受賞しました

令和2年10月19日(月)、特別養護老人ホーム裕生園の副理事長室において、令和2年度の宮崎県社会福祉協議会会長表彰の伝達式が行われ、裕生園職員の野村郁奈子さんが辰元圭子副理事長から表彰状と記念品を授与されました。

野村さんは平成16年4月に裕生園に入職。以来16年以上の長きにわたって裕生園の洗濯場で利用者の衣類の洗濯に従事してきました。

初めは慣れない仕事、慣れない職場で戸惑いもありましたが、コツコツと地道に仕事に専念し、今では裕生園の洗濯場になくてはならない存在になりました。

野村さんは今年の2月に宮崎市の社会福祉協議会から表彰を受けたのですが、今回の表彰は、市の社会福祉協議会から県の社会福祉協議会へ推薦されてのものでした。

ハンディキャップを持ちながら、長年、勤務に精励されて来た野村さん。表彰状の文言にあるように、その頑張りは他の模範と認められ、今回の表彰となりました。

本当におめでとうございます。

辰元副理事長から表彰状を伝達授与される野村郁奈子さん。裕生園の副理事長室にて

2月の宮崎市社会福祉協議会表彰に続き県の社会福祉協議会会長表彰を受けた野村さん。辰元副理事長と

秋桜
投稿日:2020-10-01 施設名:裕生園ブログ

秋の気配を感じる季節となってきましたがいかがお過ごしでしょうか。

9月25日に壁紙作りを行いました。秋らしく紅葉と秋桜をイメージしながら利用者の皆様は職員と一緒に楽しく作業されていました。季節に合わせて利用者様と壁紙を作り上げていくと皆様達成感もあり凄く喜ばれていました。

PYON

ペーパークラフトで作ってみました

利用者様と一緒に作成中


出来上がりました(≧▽≦)♪


敬老会のお祝いのお花と記念品

いつの間にかお彼岸が来ました
投稿日:2020-09-21 施設名:信愛会ブログ

令和2年9月21日、敬老の日。そして明日は秋分の日です。
今年はコロナのため、いろいろな行事活動が中止となり、
運動会、夏祭り、敬老会といった恒例の大きなイベントがありませんでした。
そのためか、私たちも季節感が鈍くなり、
気が付くと、いつの間にか彼岸花の季節がやって来ていました。
この調子で1年が過ぎていくのでしょうか。
季節の行事は、実は、私たちにその季節その季節を深く味わい、
心に刻むためにあったのだなぁ、と今思います。

コロナのために、大きな行事はできませんが、
食事やお花、ささやかな物で季節の移ろいを
利用者の皆さんに感じてもらえるように
私たちも工夫をしていかなければ、と思います。

今年も彼岸花が咲きました。そして、この時期にしか見ることのないアゲハ蝶も姿を現しました。自然界はコロナに関係なく回っていますね

投稿日:2020-09-03 施設名:裕生園ブログ

皆様こんにちは!新型コロナウイルス感染拡大防止の為、施設では外出等が出来ず、例年行われている夏祭りも中止となり、8月7日に花火を打ち上げ、ご利用者様と一緒に花火を見物しました。ご利用者様も「綺麗だね~」と言われ楽しまれていました。施設内では、利用者の皆様が少しでも楽しめるようにと感染防止に努めながら綿菓子作りを行い、笑顔で綿菓子を頬張る姿がたくさん見られ、「懐かしい」「おいしい」との声が聞かれました。          ☆れおん☆

利用者さん達の大きな歓声が上がりました

おいしそうな綿菓子がたくさんできました!

おいしいねぇ(^^♪

大きくて口に入らんねえ( ゚Д゚)

再び面会制限を行っています

令和2年8月に入りました。

宮崎県では7月下旬から新型コロナウイルスの感染が急速に拡大し、人口当たりの新規の感染率が全国の中でもかなり高くなっています。

そのため、信愛会の各施設・事業所では警戒のレベルを上げ、一時期緩和していました面会制限を再び厳格化しました。

ガラス越しの面会またはオンライン面会に戻りました。

ご家族の皆さんも県内の感染拡大の状況はわかっていらっしゃるので、今回再び面会制限が厳しくなったことについてご理解いただけていると思います。

職場や家庭での2次感染、3次感染も出て来ており、施設にいつウイルスが入ってきてもおかしくない状況になってきました。

施設内にウイルスを入れないことが一番ですが、万が一入ってきた時に迅速に適切な対処ができるように、ハード面、ソフト面、そして心の準備をしておかなければ、と思います。

 

面会禁止措置を条件付きで緩和しました

令和2年6月15日(月)、信愛会の各施設・事業所では、新型コロナウィルス感染拡大防止のため行ってきた利用者との面会禁止措置を条件付きで緩和することになりました。
高齢者は感染リスクが高く、全国的にも高齢者施設でのクラスター発生が報道等で伝えられています。

そのため、面会禁止を緩和することはリスクを伴い、慎重にならざるを得ません。

一方で、ご家族等は1月初めからのインフルエンザ対策、それに続く新型コロナウィルス対策で半年近く面会ができない状態が続いていました。

ガラス越しに外から面会したり、職員がご利用者の近況を写真に撮って郵送したりしていましたが、やはり直接顔を合わせることのできる機会をご家族もご利用者も心待ちにされていました。

全国に出されていた非常事態宣言も解除となり、また宮崎県では4月中旬に最後の感染者が判明してから2か月以上が経過したこともあり、このたび、条件付きではありますが、面会禁止措置の緩和となった次第です。

面会は予約制で、1回の面会は2人まで。時間は10分。検温、手指消毒、マスクの着用をしていただきます。

また、当面は県内の方のみに限定で、他県の感染状況を見ながら緩和していきます。

面会時は1m以上の距離を取り、裕生園ではテーブル上にビニールカーテンを用意しました。

先週、ご家族に文書でこの件についてお知らせしたところ、すぐに面会の予約が入りました。

やはり、みなさん、長い間会えなかったので、待ち遠しかったことと思います。

これから、第2波、第3波の可能性もありますので、周囲の状況を見ながら、かつ、ご利用者、ご家族のご希望に添えるよう、できる限りの工夫しながらご面会の機会を提供できたらと思います。
なお、県内で感染が発生した場合には、以前のようなガラス越しの面会に戻りますので、予めご了承ください。

大工仕事の得意な職員が手作りのビニールシート立てを作りました

上部の様子。鉄の輪っかに棒を通し、その棒にビニールシートを垂らしています

台座の部分。左右にぐらつかないように、三角形の羽がついています

この羽は蝶つがいで留めているので、使わない時は折りたためます。ここがオリジナルな所ですね

6月1日は、赤シソちぎりを行いました!

コロナウイルスの影響の中、行事や余興を控え面会も出来ない状態が続いてますね。

宮崎では、ここの所、新規の感染者は出ていませんが、私たちの施設ではまだ、ご家族との面会は制限されています。

面会制限が解除されるまでは、ガラス越しにしか顔を合わせる事が出来ない状況です。

大変申し訳ありませんが、もうしばらくお待ちください。

さて、話は変わるのですが、6月1日は、赤シソちぎりを行いました。

毎日、機能訓練を行っていますが、シソちぎりというはっきりとした目的で久しぶりに体を動かす作業のせいか、物凄く早いスピードで作業をされるので、びっくりしました。

真剣に、かつ楽しく作業をされている姿は、写真でもおわかりの通りで、みなさんとても良い笑顔でした。

ちぎったシソは、栄養士や調理職員が赤しそジュースにして、みんなで飲みました。私も頂いたのですが、甘酸っぱい爽やかな味付けで飲みやすく、くせも臭みもなかったので美味しかったです。

美味しかった事もあり、普段水分補給をして下さらない利用者様も赤しそジュースだと飲まれていましたね。

こういった作業があると利用者様もいきいきとされ、楽しい時間を過ごされるので、また機会があるといいですね。<or>

初夏
投稿日:2020-05-21 施設名:裕生園ブログ

5月1日には八十八夜、暦の上では5月5日は立夏と、日々の生活の中でも初夏を感じるような暑さや、梅雨ではないかなと思うようなムシムシするような事が多くなってきました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。新型コロナウイルスの影響で、不要不急の外出の自粛で何かと不便を感じている方も多いと思います。私は、大掃除ではなく、小掃除を休みの時にやっているところです。

施設では、ご利用者様に季節を感じる事が出来るようにと、4月には花祭り、5月には野点の行事を行いました。中々、この状況で外に出られる事が少なく、施設でのお誕生会では行事食として、こいのぼり型の押し寿司を提供したところ、笑顔でお寿司を食べていらっしゃいました。その笑顔で、私達職員も元気を頂いて頑張っている毎日です。

  A☆3104

 

辰元圭子副理事長への瑞宝双光章伝達式が行われました
投稿日:2020-05-21 施設名:信愛会からのお知らせ, 信愛会ブログ

令和2年5月21日(木)、社会福祉法人信愛会特別養護老人ホーム裕生園の副理事長室において、辰元圭子副理事長への瑞宝(ずいほう)双光章の伝達式が行われました。
この日、宮崎県福祉保健部次長と福祉保健課総務担当職員が来園し、辰元副理事長へ賞状と勲章を伝達されました。

辰元副理事長の受章は去る4月29日に発表されていたもので、本来であれば皇居にて天皇陛下に拝謁を賜ることになっていたのですが、

新型コロナウィルスの影響で、今回は拝謁式が中止となりました。

辰元副理事長は平成12年にも藍綬褒章を受章していて、このたびの叙勲はそれからちょうど20年振りのことです。

信愛会にとっても喜ばしいことで、福祉関係者、介護関係者にとっても大きな励みになる受章だったと思います。

伝達式後の歓談の際には、やはり話題はコロナウィルスの件で、現在宮崎は落ち着いていますが、第2波、第3波が秋、冬に来るのではないかとの懸念が話題に上がりました。

施設にウィルスが入ってクラスター化した場合の対応策について県も検討していて、近日中に社会福祉の各種別協議会との話し合いを行うことになっているとのことです。

大変な時期での受章となりましたが、ウィルスは私達の都合にはお構いなし、ということを改めて痛感させられる機会となりました。

いずれにしましても、辰元圭子副理事長の受章、本当におめでとうございます。

瑞宝双光章の伝達授与式(裕生園にて)

瑞宝双光章の賞状と勲章

瑞宝双光章。中央は小さな鏡がはめ込まれているように見えました

勲章を入れるケース。独特の字体で書かれてあります

辰元圭子副理事長が瑞宝双光章を受章しました
投稿日:2020-04-30 施設名:信愛会からのお知らせ, 信愛会ブログ

令和2年度春の叙勲が4月29日に発表され、信愛会の辰元圭子副理事長が瑞宝双光章を受章されました。

辰元副理事長は昭和51年5月の社会福祉法人信愛会設立から携わり、

翌昭和52年4月特別養護老人ホーム裕生園の開設と同時に副園長に就任、

翌年から平成23年3月までの33年間、裕生園園長を務められました。

平成23年4月からは法人副理事長として今日に至っています。

また、宮崎県老人福祉サービス協議会役員や県認知症高齢者グループホーム連絡協議会理事、

宮崎県社会福祉審議会委員等、公益的な役職も歴任されました。

平成12年に藍綬褒章を受章、平成18年には裕生園が優良民間社会福祉施設として天皇陛下より御下賜金を賜りました。

この度、40年以上にわたる高齢者福祉分野での功績が認められ、社会福祉功労者としての受章となりました。

私達信愛会としても喜ばしいことです。

また、社会福祉分野、高齢者介護の分野からの受章ということで、

関係者にとっても大きな喜び、そしてこれからの更なる励みになるのではないでしょうか。

本当におめでとうございます。

 

危機管理に奮闘した偉人―高木兼寛没後100周年
投稿日:2020-04-15 施設名:信愛会ブログ


一昨日、令和2年(2020年)4月13日は、ちょうど高木兼寛没後100年でした。

高木兼寛(かねひろ)、知る人ぞ知る明治・大正期の偉人で、日本帝国海軍軍医総監、「ビタミンの父」「日本疫学の父」とも呼ばれています。

高木兼寛の功績を記念して、イギリスの南極地名委員会が南極大陸のある岬を“高木岬(Takaki Promontory)”と名付けたことを知っている人はほとんどいないでしょう。

実は私もほんの5,6年前まで全く知らなかったのです。

高木岬の命名は1950年代だったのですが、最近になってようやく、日本の小・中学校で使われる地図帳に高木岬の名前が載るようになったとのことです。

ビタミン発見に貢献した先人たちを顕彰するために、ビタミンの命名者Funkやノーベル賞受賞者Eijkmanらとともに、高木兼寛にちなんだ地名が付けられたのでした。

 

今、私達は新型コロナウィルスの脅威にさらされていますが、明治・大正の頃、日本は原因不明の死病脚気(かっけ)に苦しめられていました。

海軍の練習艦『龍驤(りゅうじょう)』が太平洋への練習航海を行った時、乗組員378名中169名が脚気にかかり、23名が亡くなりました。

死亡者数を患者数で割った致死率13.6%。

また、死亡者数を乗組員数で割った死亡率は6.1%。

練習のための航海をするだけなのに、100人に6人は脚気で死ぬのです。

海軍軍医で海軍病院の院長だった高木兼寛は強い危機感を抱きます。

時代は弱肉強食の帝国主義時代で、日本は欧米列強の脅威に立ち向かうだけでなく、

脚気という内側の敵とも戦わなければならない状況でした。

兼寛は難病脚気を克服するために、過去の記録を精力的に調査し、ついに脚気は食事に関係があることを突き止めます。

炭水化物に比してタンパク質が極端に少ない時、脚気が発生することに気づいたのです。

その確信に基づいて兼寛は海軍上層部に兵食改革の必要性を説きますが、上層部は懐疑的でした。

ますます焦燥感に駆られた兼寛は、有力政治家や大蔵省とみずから交渉して、実験航海の実現にこぎつけます。

そこに至るまでの兼寛の気迫、情熱、使命感。

失敗したら切腹、ということまで兼寛は覚悟しました。そして…

炭水化物とタンパク質の比率を考慮した練習艦『筑波』による実験航海は、

脚気死亡者を全く出すことなく、大成功を収めたのでした。

こうして、懐疑的だった海軍上層部の信頼を勝ち得た兼寛は兵食改革を推進し、脚気を海軍から駆逐して行きます。

こうしたことについて兼寛は英語で論文を発表し、栄養と病気の関係に注目する学者が次第に増え、

それが一大潮流となって、のちのビタミン発見へとつながって行くことになります。

そのため兼寛は「ビタミンの父」と呼ばれるのです。

 

それにしても、もしあの時、兼寛が高く厚い壁の前に心が折れて引き下がっていたら、

あるいは「俺の知ったことか!」と、投げやりになっていたら、

やがて来る清国やロシアとの、国の命運をかけた戦の時、日本はどうなっていたでしょうか。

良くも悪くも、今の日本はなく、別の姿になっていたと思います。

 

さて、こうした兼寛の目覚ましい働きは、実は当時の日本では、海軍を除いて、ほとんど認められませんでした。

当時の日本は官学としてドイツ医学を採用していたのですが、

ドイツ医学はコッホに代表されるように、細菌学において世界の最先端を行っていました。

難病脚気も細菌による伝染病の一種と考える医療関係者が多かったのです。

しかも、兼寛の「炭水化物とタンパク質の比率が脚気の原因である」という説には、理論的な裏付けがない。

いわゆる“学理”がない、ということで蔑視されたのです。

更に、兼寛が推奨した麦飯に関して、麦と白米の吸収率を見た時、麦の方が吸収率が悪いので、

麦飯よりも白米のタンパク質の方が吸収量が多くなるということで、兼寛の説は矛盾していると指摘されます。

 

このような批判は非常に鋭いものがあり、兼寛も反論できないようでした。

こうした批判は一見もっともなように見えますが、しかし、大きなものが欠落しています。

それは、麦飯によって実際に脚気が激減しているという現実です。

炭水化物に対するタンパク質の比率を上げると確かに脚気が治り、予防することもできるという現象が厳としてあるのです。

兼寛の説が間違いだとしたら、ではそうした現象をもっとうまく説明する説を見つけ出そうとするのが次の一歩ではないのでしょうか。

それが、科学の進展というものでしょう。

さすがに、科学の歴史の長いヨーロッパの学者たちが一歩一歩学説を進めて行き、ついにビタミン学説にたどり着きます。

脚気はある微量の物質の欠乏により起こり、その物質をビタミンB1と呼んだのでした。

このビタミンB1はなぜかタンパク質との共存率が高く、タンパク質を多く含む食材を摂れば自然とビタミンB1を摂ることになり、兼寛の言う通り、炭水化物に対するタンパク質の比率を上げれば脚気は治ります。

つまり、兼寛の説は、医学的な理論としては正解から外れていましたが、医療的な“処方”としては、十分有効だったことになります。

ここに、医学と医療の役割の違いを見ることができます。

兵士の健康管理を預かる現場の軍医としてはそれで十分だったのであり、兼寛の実績は学術的な追究のための良質な材料を提供した格好だったのですが、

当時の日本の学者達、特にドイツ医学派の学者達は兼寛の説に対する批判に終始し、兼寛が提示したせっかくの材料を活用展開することはできませんでした。

 

このドイツ医学派の中に森林太郎がいました。

陸軍の若き軍医で、東大医学部を最年少で卒業。ドイツに留学し、コッホの研究室にも在籍しました。

イギリス医学派の海軍軍医高木兼寛に対して、林太郎はドイツ医学派、陸軍医務局の切り札のような役目を背負わされていたと言えます。

ドイツ留学中にも、林太郎は日本からの便りで高木兼寛の動向を知らされていました。

そして、ドイツ留学を終えて日本に帰ってきた林太郎。

帰朝講演の中で、林太郎は「兵食をタンパク質の豊富な洋食にすべき」という兼寛の説に対して反論を加え、兼寛のことを当てこすって「ロウスビーフに飽くことを知らざるイギリス流の偏屈学者」と呼んでしまいます。

おそらく、会場を埋めていたドイツ医学派の聴衆から大きな歓声と笑いが上がったことでしょう。

林太郎としては、ドイツ医学派・陸軍医務局の切り札としての自分の立ち場を自覚していたでしょうから、聴衆に対するリップサービスの意味もあったと思います。

しかし、この嘲笑的な集団心理がこの後のドイツ医学派の歩みを、とりわけ林太郎自身の歩みを、苦しいものにして行くのです。

のちに高木兼寛が南極大陸にその名が刻まれるほどの人物になるとは、誰もこの時点では想像できなかったでしょう。

人生は恐ろしいものであり、謙虚さは相手を敬うことでもあるけれども、何より自分を守ることでもある、ということを感じて、ひやりと身が縮む思いがします。

晩年の高木兼寛。散歩の途中でしょうか。現代人にはもはや失われた明治人の“風格”を漂わせる写真。宮崎市高岡総合支所の高木兼寛コーナーの写真より

 

この後もドイツ医学派vs.イギリス医学派、陸軍vs.海軍の対立構造は解消することなく、日清・日露の両戦争に突入して行きます。

高木兼寛の奮闘によっていち早く脚気問題を片づけていた海軍とは対照的に、白米至上主義のドイツ医学派が医務局を占めていた陸軍は、日清戦争で約35,000名の脚気患者、約4,000名の脚気死亡者、日露戦争で約211,600名の脚気患者、約27,800名の脚気死亡者を出します。

信じられない数字ですが、こうした事態は避けることはできなかったのでしょうか。これは必然だったのでしょうか。

暗澹たる気持ちにさせられます。

後世の私達は必ずやここから何かを学び取らなければいけないでしょう。

それが悲運の先人たちへのせめてもの弔いだと思います。

 

さて、森林太郎は日清・日露の両戦争に軍医として出征します。

脚気で次々に倒れて行く兵士を軍医として看て、何を思ったか。

日露戦争後、林太郎は陸軍軍医総監という陸軍軍医のトップとなり、

一方で森鷗外として『ヰタ・セクスアリス』『青年』『雁』など、

また乃木将軍の自刃を機に、『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』『澁江抽斎』等を発表します。

まさに文豪として確固たる地位を占めていくのですが、

ここで誰でも疑問に思うでしょう。

鷗外すなわち林太郎はそうした名作を生みながら、あの脚気問題から完全に自由だったのでしょうか。

あれほどの惨事を、もちろん一人で引き起こしたわけではありませんが、

やはりかなりの部分で責任を問われるべき林太郎は、

文豪鷗外としての自分と、軍医としての自分の両方をどのように折り合いをつけていたのか。

折しも、ヨーロッパでビタミン学説が誕生し、様々な文献の中でKanehiro Takaki(高木兼寛)の業績への言及が目立って来ます。

それを見て、林太郎の心の中にどんな思いが生じていたでしょうか。

そういった問題意識を持って、それこそ紙背に徹するほどの眼光をもって、

鷗外の数々の作品を読んで行くと、

実はたくさんの謎が作品群に散りばめられていることに気づきます。

その、点のような一つひとつの謎を線で結んで行った時、思いも寄らぬ鷗外像が現れて来ます。

私達が普通に使う“文豪”の意味とは次元の全く異なる意味での“文豪”と言ったらいいでしょうか。

明治日本という文明史的に稀有な時代に必然だった一つの役割を、

自らの運命として引き受けて最後の遺言で完結させるまで生き抜いた林太郎・鷗外。

今年は高木兼寛没後100年だったのですが、2年後には鷗外没後100年が来ます。

今、「鷗外学」は新しい段階へと進む時期に来ているのではないでしょうか。

林太郎・鷗外もそれを100年の間、待っていたと思います。

ちょうど、『雁』のヒロインお玉のように。                  (アッサン)

晩年の森林太郎・鷗外。
孤独と苦悩の深い影を見る者に感じさせる写真。
文豪鷗外はその作品の深奥に何を秘めたのか

 

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