社会福祉法人 信愛会

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高木兼寛という人がいた⑪

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)

 

吉村昭『白い航跡』(講談社文庫)の表紙に掲載されている練習艦『筑波』。多くの人々の注視する中、太平洋横断の大航海に出た

『筑波』の食事を復元した模型。パン、ビスケット、牛肉のステーキ、大豆の五目煮、牛乳、など。炭水化物を減らし、タンパク質を重視する兼寛の説に基づくメニュー(宮崎市役所高岡総合支所の高木兼寛コーナー)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明治17年(1884年)2月3日、日本海軍の練習艦『筑波』がニュージーランド、南米チリ、ペルー、そしてハワイを経由して日本に帰って来るという太平洋横断の大航海に出航しました。前年に乗組員378名中169名の脚気患者、23名の死亡者を出した練習艦『龍驤(りゅうじょう)』と同じ航路です。

 兼寛は脚気の原因は食物の栄養バランス、すなわち炭水化物とタンパク質の異常な比率にあると確信していたので、『筑波』のメニューも炭水化物を減らしタンパク質を重視したものに定め、それを航海中、厳格に守るよう艦長達に指示しました。艦長始め乗組員達はこの実験航海の意義を十分に理解していたので、その士気は高く、食事に関する兼寛の指示通りにすることを約束しました。

 通信機器の発達した現代であれば航海中の状況もリアルタイムで詳しく知ることができますが、この時代は寄港地から手紙を船便で送るか、電信(モールス信号等)だけです。日本で待っている兼寛の心境はいかばかりだったでしょう。

 吉村昭の小説『白い航跡』には、この時の兼寛の不安にさいなまれ悶え苦しむ様が描かれています。自分の説には十分確信は持っていたものの、実験航海が終わらないうちはどうすることも出来ません。もし、自分の説が間違っていて、『筑波』も『龍驤』と同じように多数の脚気犠牲者を出したら?政府要人に働きかけて大蔵省の国家予算も特別に組み替えて、莫大な費用の負担を強い、天皇陛下にまで自説を言上したのにそれがもし誤りだったとしたら?兼寛は夜も眼が冴えて眠れず、眠りに落ちても夢を連続して見ました。『筑波』の艦内到るところに脚気患者が寝ていて、死者を白い布に巻いて海中に水葬するシーンの夢。「こんな食量表など何の役にも立たぬ。かえって患者が多くなるばかりだ!」と艦長が激怒し、兼寛が与えた食量表を怒りに満ちて破り捨てる夢。脚気のために皆が倒れ、航行に従事できる者もいなくなって、『筑波』が洋上を幽霊船のように漂っている夢…

 兼寛は食欲が衰え、痩せて頬がこけ、眼はうつろになりました。

 『筑波』は寄港地のニュージーランド及び南米チリからその都度、報告書を送って来て、それによればそこまでは順調に航海は進んでいるようでした。しかし、あの『龍驤』もそこまでは問題はなかったのです。『龍驤』が戦慄すべき数の脚気患者と死亡者を出したのは、南米からハワイへ至る果てしなく続くような太平洋の航海中でした。『筑波』はこの“魔の海域”を乗り切れるかどうか。

 この年、明治17年(1884年)の秋が日増しに深まって来ました。

 10月9日夕刻、川村海軍卿から使いが来て、兼寛は川村のもとへ向かいます。『筑波』がチリからの航海を経てハワイに着いたという報告があったとのこと。川村は『筑波』の艦長からの電信文を持っていました。

(ここからは吉村昭の『白い航跡』からそのまま抜き書きしましょう)

 “川村は、自分の前におかれた電信紙を手にした。

 近寄った兼寛は、それを受取り、電信文に視線を据えた。

 電信紙には、

 「ビヤウシヤ 一ニンモナシ アンシンアレ」

 という文字が記されていた。

 電信紙を持つかれの手が、激しくふるえはじめた。病者一人もなし…、かれは胸の中でつぶやいた。安心あれ、という片仮名文字の文章に、不意にのどもとに熱いものがつきあげてきた。

 通信文の文字が涙でぼやけたが、かれはその文字を一字ずつ眼で追いながら立っていた。歯をくいしばり、嗚咽(おえつ)がもれるのをこらえていた。”

 川村の前では必死に堪えていた兼寛でしたが、川村の部屋を出て自室にもどった彼は“ビヤウシヤ一ニンモナシ”と胸につぶやき、ついに堪えきれずに嗚咽したのでした。

 海軍省内も『筑波』艦長からの脚気患者一人もなしという電文に沸き立ちました。『龍驤』と同じように『筑波』でも悲惨な事態が起きると予測していたからでした。

 この“ビヤウシヤ 一ニンモナシ アンシンアレ”に兼寛が嗚咽するシーンは、兼寛の人生の中のクライマックスだったでしょう。脚気をどうにかしたいの一心で研究を重ね、栄養バランスに原因があることを確信。その確信を兵食改革に結びつけるために上司や関係機関、政府要人に粘り強く交渉し、国家的規模の実験航海を実現させ、その結果を待つ間の想像を絶するプレッシャー、考えただけでも逃げ出したくなるようなプレッシャーに耐えた。後年、若い軍医が兼寛に「もしあの時筑波艦内に脚気患者が発生していたら、その時はどうなさるおつもりだったのですか」と問うたところ、彼は即座に「その時は切腹してお詫びするつもりであった」と答えたそうです。ほんの10何年か前までは江戸時代だったのですから、まだこの頃は武士の気概が十分に残っていたのでしょう。

 そして、これは兼寛の人生にとってのクライマックスであったと同時に、世界の医学史の中でビタミン学がうぶ声を上げた瞬間でもありました。栄養バランスによって生じる死病があり、それはまた栄養への配慮によって予防しかつ治すことができる、ということを一国の海軍が国家予算を使って実験し証明したのです。そのインパクトは大きく、細菌学全盛の時代にあって、全く発想法の変更を迫るものでした。病原を患者の体内に探すのではなく、食物の栄養と病気との関係に光を当てることを要求するものであり、のちにビタミン学へと発展する潮流を創り出したのです。

 このように、『筑波』の実験航海はまことにあっ晴れな壮挙だったと言えるのですが、歴史はそう単純なものではありませんでした。この『筑波』の実験航海に対する日本海軍と陸軍の反応は全く対照的でした。そしてそれがそのまま日清・日露戦争時の脚気惨事へとつながって行きます。         (アッサン)

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