社会福祉法人 信愛会

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高木兼寛という人がいた⑨

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)
 脚気の原因は食物の栄養バランスにある、具体的にはタンパク質が極度に少なく炭水化物が過多の場合に脚気におかされる、ということを、兼寛は過去のデータの徹底的な分析、海軍病院での脚気患者の診察、水兵たちの食事の質の観察で確信します。病気といえば細菌、または何らかの毒によるもの、という発想がほとんどであった当時、この兼寛の“脚気の原因は食物の栄養バランス”という説は、この説に基づくその後の実績と相伴って、世界の医学史の中で非常に革命的なインパクトを与えるものであって、のちのビタミン学誕生の大きなきっかけとなるのですが、兼寛本人にその意義の重大さの自覚が当時あったかどうかはわかりません。兼寛としては、ただただ、脚気を何とかしたいの一心で、あらゆる先入観なしに、データを分析し、患者と向き合い、観察に徹した結果の確信だったと思います。
 さて、この頃、明治15年(1882年)、日本海軍を震撼させる事件が起こります。朝鮮で京城事変(壬午じんご事変)というものがあり、この時、日本の軍艦が初めて外国に出動しました。当時、朝鮮の王室内では革新派と保守派の対立があり、革新派は日本に、保守派は清国に接近していました。ついに両派の衝突が起こり、保守派が革新派の邸を襲い、革新派が招いていた日本人の軍事顧問ら数名を殺害、さらに日本公使館を襲撃しました。日本政府は在留邦人保護の目的で、日本海軍の主力軍艦5隻を現在の仁川近くの湾に派遣、清国も日本側を牽制するために当時の世界有数の巨艦3艦を派遣。同じ湾内で緊迫したにらみ合いとなります。両国艦隊の武力衝突も場合によっては予想されました。
 この時、日本の5隻の軍艦内では大変なことが起こっていました。脚気です。多数の脚気患者が発生し、艦内では患者が身を横たえ、死亡する者も出ていました。もしも清国との間で武力衝突が起きたら、戦闘に応じる人員はわずかで、日本側が全滅することは明らかでした。日本側は、このような状態にあることを清国側に気付かれないようにすることに必死でした。幸い、日本と朝鮮政府との間に条約が結ばれ、清国の軍艦は去り、日本の軍艦も仁川を離れて日本に帰って来ました。
 これは日本海軍にとって大きな衝撃でした。一大危機と言えます。いくら軍艦等の装備を充実させても、兵士が脚気で倒れて戦闘能力を発揮できなければ、全く意味をなしません。国家存亡にかかわって来ます。
 海軍病院に運びこまれた兵士たちを見て回った兼寛は、上司の戸塚海軍医務局長に自説を訴えます。食物と脚気の関係について調査・研究を行った結果、タンパク質と炭水化物の異常な比率が脚気発病の原因と確信するに至ったことを述べ、そして、兵食を洋食に切り替えることを戸塚局長に提案します。
 それに対して戸塚は難色を示します。その提案は海軍兵食制度の基本にかかわることだから、実行は非常に難しいだろう、と。金銭支給を廃止すれば、食費を貯蓄や仕送りに回している兵士たちの不満が出るおそれがあること。パンを主食とする洋食には兵士たちは慣れていないのでいやがるだろうこと。洋食は経費がかかり、海軍の予算にもかかわってくること。
 兼寛はなおも兵食改革の必要性を訴え、結局、川村海軍卿(大臣)に上申することになりました。川村海軍卿は京城事変の際の脚気多発に衝撃を受けていたので、戸塚と兼寛からの上申を受け、海軍首脳者による将官会議を開き、そこに兼寛も呼んで上申書の趣旨を説明させました。兼寛は自説を展開。将官達は強い危機感をもち、長時間の協議を続けました。やがて意見がまとまり、結論が下されましたが、兼寛にとっては失望させるような内容でした。「将来、兵食の金銭支給を廃し、食物そのものを与えるよう改正することを、ほぼ内定する。海軍病院において数名の脚気患者に洋食を与えて実験する。」兼寛は、兵食改革は急務であると訴えたのに、「将来」とされ、しかも「ほぼ内定」という曖昧な表現になっていました。また、洋食による実験も上申案よりはるかに規模の小さいものとなっていたのです。
 海軍省の遅々とした動きに焦燥感を抱いた兼寛は、政府部内で強い発言力をもつ人物たちに直接訴えるしかない、と思うようになります。そして実際に時の左大臣有栖川宮(ありすがわのみや)の側近を通して宮との面談を懇願し、それが認められ、宮に直接自説を披露する機会を持つことができました。海軍の兵食を洋食にすることが急務であることを申しあげ、予算の増大について大蔵卿その他の方々に何かの折に働きかけてほしい旨を宮にお願いしました。
 このように兼寛が兵食改革の必要性について焦燥感をもって海軍上層部や政府部内の有力者に働きかけていた頃、海軍を戦慄させるもう一つの事件が起きました。明治15年12月に太平洋に練習航海に出ていた軍艦『龍驤(りゅうじょう)』が翌明治16年9月に日本に帰って来たのですが、ここでも脚気被害が大変なことになっていました。乗組員378名中、169名が脚気におかされ、しかも23名が死亡していたのです。この報告を聞いた海軍の高官達はいよいよ深刻な危機感を抱くようになり、兼寛も「わが海軍は脚気のために滅亡してしまう」と、兵食改革の訴えにますます奮闘して行きます。                (アッサン)

太平洋への練習航海で乗組員378名中、169名の脚気患者、
23名の死者を出した練習艦『龍驤(りゅうじょう)』
(Wikipediaより)
 

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