社会福祉法人 信愛会

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高木兼寛という人がいた⑧

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)

 いよいよ兼寛は本格的に脚気に取り組んで行きますが、脚気とはそもそもどんな病気なのでしょうか。現代の私たちにはあまりなじみのない、もう克服されてしまった、古い時代の病気というイメージしかないと思います。しかし、兼寛が活躍した明治・大正の頃は、結核と並んで日本の国民病として恐れられていて、原因も治療法もわからない難病、奇病という扱いでした。症状としては、まず足がだるく、疲れやすくなる。更に手足がしびれ、動悸がし、食欲不振におちいり、足がむくむ。もっと病状が進むと、歩行も困難になって視力も衰え、突然、胸が苦しくなって心臓麻痺を起して死ぬ。短期間に死ぬので「三日坊」と呼ばれることもあったそうです。三代将軍家光、十三代家定、十四代家茂も脚気で亡くなったと言われています。

 現代医学では、脚気はビタミンB1の欠乏が原因と解明されています。体内で炭水化物(糖質)をエネルギーに換える際、このビタミンB1が重要な働きをします。そのためビタミンB1が不足するとエネルギー生産がうまくできなくなり、脳にも十分なエネルギーが行かなくなり、中枢神経、末梢神経に異常が生じて様々な症状となって現れて来ます。車に例えれば、燃料ばかり補給しても、その燃料を爆発させてエネルギーに換える際に重要な働きをする電気系統に異常があれば車は動きませんが、ビタミンB1欠乏はちょうど車の電気系統異常を引き起こすようなものと考えたらよいでしょうか。

 ビタミンB1を多く含む食品としては豚肉、レバー、うなぎ、豆類、玄米、胚芽米、麦などです。精白米は玄米から精製する過程でビタミンB1を失ってしまうため、白米ばかり食べて副食でビタミンB1を補わないと脚気になってしまいます。ビタミンB1は摂りだめができないので、毎日補うことが大切とされています。

 兼寛たちが脚気と格闘していた頃は、もちろんビタミンの存在もビタミンの働きもまだ世界中の誰にも知られていませんでした。だから、難病、奇病と言われていて、白米を主食とする日本人に多い国民病だったのです。こうした中で、兼寛は独自の研究と熱意で海軍から脚気を駆逐し、後のビタミン発見への大きな足掛かりを作って行くことになるのです。

 脚気への取り組みの中で、兼寛の前に様々な困難が立ちはだかりますが、それにたじろがず立ち向かって行くその情熱、気迫、覚悟を、吉村昭の『白い航跡』は見事に描いています。兼寛の数々の業績を単に羅列しただけでは伝わらない、兼寛の人間としての心の動きをリアルに描いています。その場の空気さえも再現する…小説というものの持つ素晴らしさですね。このブログでは、とても『白い航跡』の中身の再現はできませんが、『白い航跡』に沿って話を進めて行きます。統計的な数値も『白い航跡』で使われているものを主として参照して行きます。

 

 さて、イギリス留学から帰って来た頃の、兼寛が所属する海軍における脚気の猛威はすさまじく、明治11年(1878年)から海軍で行われている統計調査では次の表のような結果となっていました。

明治11年

(1878年)

明治12年

(1879年)

明治13年

(1880年)

明治14年

(1881年)

海軍の総兵員数

4,528

5,081

4,956

4,641

 脚気患者数

1,485

1,978

1,725

1,163

  割  合

32.80%

38.93%

34.81%

25.06%

海軍で猛威を振るう脚気

 

 そしてこの4年間の脚気による死亡者は146名に達していました。海軍病院で院長として毎日のように脚気患者に接している兼寛でしたが、一晩で4,5人が脚気で亡くなったこともありました。兼寛は何とかしなければ、の思いで過去のデータを徹底的に調査します。発病と季節の関係、患者の配属部署による違い、衣類、気温などなど。連日、おびただしい量の資料に目を通していたところ、注目すべき記録を発見します。それは明治8年にアメリカ、11年にオーストラリアへ練習航海が行われていたのですが、ハワイのホノルル、サンフランシスコ、シドニーなどに碇泊中には脚気の発症はなく、日本に帰ろうとする航海中に脚気患者が急増していたのです。これは何を意味するのでしょうか。もし、脚気が伝染病であるならば、外国の港に碇泊中も患者が発生してもよいのに、それは皆無です。乗組員たちは碇泊中、交替で上陸し、洋食を口にしていました。そして、航海中はもっぱら和食に戻ります。「脚気は食物に関係があるのではないか」と、兼寛は思い始めます。こうして兼寛は、脚気発生状況と食事との関連に焦点をしぼって徹底した調査に取り組んで行きます。

 そして、実際に海軍病院に入院している脚気患者を見てみると、患者は水兵に限られ、士官は極めて少ないことに気付きました。兼寛は食物の質に差があるのではないかと思い、水兵達の食事を調べてみると極めて粗末でした。これは、当時の海軍の兵食制度にも原因があって、海軍では主食の白米は現物支給で、副食は階級によって差のある金銭支給だったのです。水兵達はそのわずかばかりの金銭を副食の購入にあてないで、貯金したり故郷への仕送りにしたりしていました。そのため、水兵達の食事は白米ばかり多くて副食の貧しいものになっていたのです。

 こうしたことから、兼寛は脚気は食事に関係があるとの確信をますます深めます。そして、脚気患者が多く出る艦船や兵舎の水兵達の食物を調べると、タンパク質(肉、魚、豆など)が極めて少なく、炭水化物(白米)がはるかに多いことを突き止めます。こうして兼寛は、タンパク質が少なく、炭水化物が過多である場合に脚気におかされる、という確信をいだくことになるのです。
 ビタミンB1を知っている現代の私たちからすると、この兼寛の確信はピンポイントの正解ではないのですが、脚気細菌説、伝染病説を信奉する人がほとんどであった当時において、全く着眼点の異なる“食物の栄養バランス”に原因があることを確信する兼寛は、やはり凄いと言わざるを得ません。徹底的なデータ分析と医者としての本能的な察知力、言わば医療的“勘”の鋭敏さを兼寛が発揮したからだと言えます。その察知力や勘の鋭敏さも、兼寛の広くて深い学識、そして圧倒的に豊富な臨床経験に支えられてのものだったことは言うまでもありません。
 こうした確信を得た兼寛は海軍の「兵食改革」の必要性を強く感じるようになるのですが、この兵食改革の実現は並大抵のことではありませんでした。この実現には、海軍を戦慄させることになる2つの“事件”と兼寛の不屈の交渉力が必要でした。        (アッサン) 

 

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