社会福祉法人 信愛会

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高木兼寛という人がいた⑦

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)
 明治13年(1880年)11月、兼寛は5年の英国留学を終えて日本に帰って来ました。兼寛のイギリスでの抜群の成績は既に日本にも伝えられていたので、海軍医務局は喜びとともに今後の彼の活躍への期待をもって兼寛を迎えました。兼寛は31歳の若さで海軍病院の院長に任命されます。

 イギリスにおける外科、産科、内科の医師資格と外科教授の資格を得て日本に帰って来た兼寛。彼がそこに見たものは何だったでしょう。それは、日本の医学界が海軍を除いてドイツ医学一色に染まっていたことでした。明治の初めに、これからの日本の医学の範をドイツ医学に取ると日本政府が決めたので、ドイツ医学がいわば“官学”になっていました。当時、唯一の大学であった東京大学の医学部も当然ドイツ医学を採用し、ドイツ人の医学教授を招き、ドイツ語で授業が行われていました。

 明治維新を経て、後発国として必死な思いで西洋化を推進していた日本。医学に関しても、どこかの国をモデルとして追いかけて行くことが、医学を急速に発展させて行く近道です。それがドイツでした。当時のドイツはコッホに代表されるように、細菌学の分野で隆盛期を迎えていて、世界の医学界の中でも抜きん出た存在となっていました。どこか一つの国をモデルとして選ばなければならないとしたら、ドイツという選択も決して間違いではなかったと思います。

 ただ、問題は、政府がドイツ医学を採用し、いわば“官学”となったために、ドイツ医学が“官”の権威を持つようになってしまったことです。「ドイツ医学に非ざれば、医学に非ず」というような風潮が生じて来ました。これは、現代の私達の感覚からすると奇異な感じがします。医学も含め、科学というものは普遍的なもので、どこか一つの国のものが正で、それ以外のものは否、というものではないでしょう。確かに、国によってアプローチの仕方や得意分野などに違いはあるでしょう。しかし、ドイツ医学といい、イギリス医学といい、最終的には医学という大河に流入して行くもの。ドイツやイギリス本国ではお互いの国の医学上の成果を尊重し、それを取り入れ、それが更なる発展につながっていたでしょう。それが日本に輸入されると、まるで“宗派”の争いのようになってしまい、感情的になり、そのため純粋に科学的なものの見方が出来なくなってしまうようなのです。

 イギリスで一流の医者としての知識と技量を身に着けて帰国した兼寛が、こういう状況の日本の医学界、医療界を見た時、兼寛には自分のやらなければならない課題が見えて来ました。そして実にたくさんのことを成し遂げて行くのですが、ここでは次の4つのことを挙げるにとどめます。
1.医学校をつくる。
 当時の日本の主流であったドイツ医学は学問的な研究を重視し、研究室で試験管と顕微鏡を使って病原を追究して行くというスタイルが特徴で、基礎医学に強みがあった。
 一方、兼寛が学んだイギリスでは、臨床を重視し、いかに患者と向き合い患者を治していくか、という極めて実際的な医療が中心。机上の学問としての医学、あるいは研究室の医学ではなく、それをどう実際の患者の治療に応用して行くか、に重点を置いていた。兼寛はこうした臨床重視の学校をつくることにより、一般の人々の病気や怪我の治療ができる有用な医者をたくさん世に送り出したいと考えた。
2.病院をつくる。
 兼寛が留学したイギリスのセント・トーマス病院はイギリスで最も古くからある病院で、貧しい人を無料で受け入れる“施療(せりょう)病院”でもあった。そのための経済的支援をイギリス王室から受けていて、王室との結びつきの強い病院だった。兼寛は貧しい人を無料で診るこうした施療病院を日本にもつくりたいと思った。
3.看護婦教育所をつくる。
 セント・トーマス病院で兼寛が感銘を受けたことの一つに、病院での看護婦の見事な働きぶりがあった。医学知識を身に着け、人間性にも優れた看護婦たちが医師の手足となってかいがいしく働いている姿。それもそのはず。セント・トーマス病院内にはあのナイチンゲールが創設した看護婦養成学校があり、兼寛が留学した頃は、まだナイチンゲールは存命中で、セント・トーマス病院の看護婦たちはナイチンゲールの精神を受け継いだ女性達だった。兼寛は「医師と看護婦は車の両輪」という考えを持っていた人で、このような看護婦教育所を日本につくりたいと思った。
4.脚気に本気で取り組む。
 兼寛にとっての生涯をかけてのテーマ。イギリス留学前、海軍病院に勤務していた頃からずっと気に掛かっていた未解決の問題。イギリス留学中も頭にあった。そして、イギリスで大きなヒントを得る。それは、日本であんなに恐れられていた脚気が、イギリスでは全く見られないこと。イギリスの医師も脚気について全く知らず、関心もない。これは後に、脚気が細菌から来るものなのか、それ以外に原因があるのかを考える際に一つの大きなヒントになって行く。

 以上、兼寛の取り組みを4つ挙げましたが、そのいずれもが実現し、今日までその成果が続いています。1の医学校については、成医会講習所を創設し、それは今日の東京慈恵会医科大学に発展しています。2の病院については、有志共立東京病院を開設し、それは今日の東京慈恵会医科大学附属病院へ、3の看護婦教育所については、有志共立東京病院看護婦教育所を開設し、それは今日の慈恵看護専門学校へとつながっています。これらはそれぞれにその創立とその後の展開について大変興味深い歴史、エピソードがあり、それだけで物語になりそうです。興味のある方は、講談社文庫の吉村昭著『白い航跡』や東京慈恵会医科大学の松田誠名誉教授の一連の文章を読まれることをお薦めします。松田誠名誉教授の文章はインターネットから見ることができます。
 4の脚気への取り組みについて。この脚気への取り組みを通して、兼寛はビタミン発見への道を大きく切り開いて行くことになります。そして、世界でビタミン学を学ぶ人がいる限り、高木兼寛(Kanehiro Takaki)の名前はこれからも記憶されて行くでしょう、それほどのインパクトのある業績を成し遂げることになります。
 いよいよヤマ場に差しかかって来ました。果たしてこのブログがそのテーマの重量に耐えられるかどうか心配ですが、高木兼寛の奮闘のほんの一部分だけでもお伝えしたいと思います。                    

イギリスのセント・トーマス病院の敷地内にあるナイチンゲール・ミュージアムの玄関。セント・トーマス病院内にはナイチンゲール創設による看護婦養成学校があり、兼寛が留学していた頃、ナイチンゲールはまだ存命中だった(辰元病院院長川﨑渉一郎氏撮影)

ナイチンゲールの胸像(川﨑氏撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(アッサン)

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