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危機管理に奮闘した偉人―高木兼寛没後100周年
一昨日、令和2年(2020年)4月13日は、ちょうど高木兼寛没後100年でした。
高木兼寛(かねひろ)、知る人ぞ知る明治・大正期の偉人で、日本帝国海軍軍医総監、「ビタミンの父」「日本疫学の父」とも呼ばれています。
高木兼寛の功績を記念して、イギリスの南極地名委員会が南極大陸のある岬を“高木岬(Takaki Promontory)”と名付けたことを知っている人はほとんどいないでしょう。
実は私もほんの5,6年前まで全く知らなかったのです。
高木岬の命名は1950年代だったのですが、最近になってようやく、日本の小・中学校で使われる地図帳に高木岬の名前が載るようになったとのことです。
ビタミン発見に貢献した先人たちを顕彰するために、ビタミンの命名者Funkやノーベル賞受賞者Eijkmanらとともに、高木兼寛にちなんだ地名が付けられたのでした。
今、私達は新型コロナウィルスの脅威にさらされていますが、明治・大正の頃、日本は原因不明の死病脚気(かっけ)に苦しめられていました。
海軍の練習艦『龍驤(りゅうじょう)』が太平洋への練習航海を行った時、乗組員378名中169名が脚気にかかり、23名が亡くなりました。
死亡者数を患者数で割った致死率13.6%。
また、死亡者数を乗組員数で割った死亡率は6.1%。
練習のための航海をするだけなのに、100人に6人は脚気で死ぬのです。
海軍軍医で海軍病院の院長だった高木兼寛は強い危機感を抱きます。
時代は弱肉強食の帝国主義時代で、日本は欧米列強の脅威に立ち向かうだけでなく、
脚気という内側の敵とも戦わなければならない状況でした。
兼寛は難病脚気を克服するために、過去の記録を精力的に調査し、ついに脚気は食事に関係があることを突き止めます。
炭水化物に比してタンパク質が極端に少ない時、脚気が発生することに気づいたのです。
その確信に基づいて兼寛は海軍上層部に兵食改革の必要性を説きますが、上層部は懐疑的でした。
ますます焦燥感に駆られた兼寛は、有力政治家や大蔵省とみずから交渉して、実験航海の実現にこぎつけます。
そこに至るまでの兼寛の気迫、情熱、使命感。
失敗したら切腹、ということまで兼寛は覚悟しました。そして…
炭水化物とタンパク質の比率を考慮した練習艦『筑波』による実験航海は、
脚気死亡者を全く出すことなく、大成功を収めたのでした。
こうして、懐疑的だった海軍上層部の信頼を勝ち得た兼寛は兵食改革を推進し、脚気を海軍から駆逐して行きます。
こうしたことについて兼寛は英語で論文を発表し、栄養と病気の関係に注目する学者が次第に増え、
それが一大潮流となって、のちのビタミン発見へとつながって行くことになります。
そのため兼寛は「ビタミンの父」と呼ばれるのです。
それにしても、もしあの時、兼寛が高く厚い壁の前に心が折れて引き下がっていたら、
あるいは「俺の知ったことか!」と、投げやりになっていたら、
やがて来る清国やロシアとの、国の命運をかけた戦の時、日本はどうなっていたでしょうか。
良くも悪くも、今の日本はなく、別の姿になっていたと思います。
さて、こうした兼寛の目覚ましい働きは、実は当時の日本では、海軍を除いて、ほとんど認められませんでした。
当時の日本は官学としてドイツ医学を採用していたのですが、
ドイツ医学はコッホに代表されるように、細菌学において世界の最先端を行っていました。
難病脚気も細菌による伝染病の一種と考える医療関係者が多かったのです。
しかも、兼寛の「炭水化物とタンパク質の比率が脚気の原因である」という説には、理論的な裏付けがない。
いわゆる“学理”がない、ということで蔑視されたのです。
更に、兼寛が推奨した麦飯に関して、麦と白米の吸収率を見た時、麦の方が吸収率が悪いので、
麦飯よりも白米のタンパク質の方が吸収量が多くなるということで、兼寛の説は矛盾していると指摘されます。
このような批判は非常に鋭いものがあり、兼寛も反論できないようでした。
こうした批判は一見もっともなように見えますが、しかし、大きなものが欠落しています。
それは、麦飯によって実際に脚気が激減しているという現実です。
炭水化物に対するタンパク質の比率を上げると確かに脚気が治り、予防することもできるという現象が厳としてあるのです。
兼寛の説が間違いだとしたら、ではそうした現象をもっとうまく説明する説を見つけ出そうとするのが次の一歩ではないのでしょうか。
それが、科学の進展というものでしょう。
さすがに、科学の歴史の長いヨーロッパの学者たちが一歩一歩学説を進めて行き、ついにビタミン学説にたどり着きます。
脚気はある微量の物質の欠乏により起こり、その物質をビタミンB1と呼んだのでした。
このビタミンB1はなぜかタンパク質との共存率が高く、タンパク質を多く含む食材を摂れば自然とビタミンB1を摂ることになり、兼寛の言う通り、炭水化物に対するタンパク質の比率を上げれば脚気は治ります。
つまり、兼寛の説は、医学的な理論としては正解から外れていましたが、医療的な“処方”としては、十分有効だったことになります。
ここに、医学と医療の役割の違いを見ることができます。
兵士の健康管理を預かる現場の軍医としてはそれで十分だったのであり、兼寛の実績は学術的な追究のための良質な材料を提供した格好だったのですが、
当時の日本の学者達、特にドイツ医学派の学者達は兼寛の説に対する批判に終始し、兼寛が提示したせっかくの材料を活用展開することはできませんでした。
陸軍の若き軍医で、東大医学部を最年少で卒業。ドイツに留学し、コッホの研究室にも在籍しました。
イギリス医学派の海軍軍医高木兼寛に対して、林太郎はドイツ医学派、陸軍医務局の切り札のような役目を背負わされていたと言えます。
ドイツ留学中にも、林太郎は日本からの便りで高木兼寛の動向を知らされていました。
そして、ドイツ留学を終えて日本に帰ってきた林太郎。
帰朝講演の中で、林太郎は「兵食をタンパク質の豊富な洋食にすべき」という兼寛の説に対して反論を加え、兼寛のことを当てこすって「ロウスビーフに飽くことを知らざるイギリス流の偏屈学者」と呼んでしまいます。
おそらく、会場を埋めていたドイツ医学派の聴衆から大きな歓声と笑いが上がったことでしょう。
林太郎としては、ドイツ医学派・陸軍医務局の切り札としての自分の立ち場を自覚していたでしょうから、聴衆に対するリップサービスの意味もあったと思います。
しかし、この嘲笑的な集団心理がこの後のドイツ医学派の歩みを、とりわけ林太郎自身の歩みを、苦しいものにして行くのです。
のちに高木兼寛が南極大陸にその名が刻まれるほどの人物になるとは、誰もこの時点では想像できなかったでしょう。
人生は恐ろしいものであり、謙虚さは相手を敬うことでもあるけれども、何より自分を守ることでもある、ということを感じて、ひやりと身が縮む思いがします。
この後もドイツ医学派vs.イギリス医学派、陸軍vs.海軍の対立構造は解消することなく、日清・日露の両戦争に突入して行きます。
高木兼寛の奮闘によっていち早く脚気問題を片づけていた海軍とは対照的に、白米至上主義のドイツ医学派が医務局を占めていた陸軍は、日清戦争で約35,000名の脚気患者、約4,000名の脚気死亡者、日露戦争で約211,600名の脚気患者、約27,800名の脚気死亡者を出します。
信じられない数字ですが、こうした事態は避けることはできなかったのでしょうか。これは必然だったのでしょうか。
暗澹たる気持ちにさせられます。
後世の私達は必ずやここから何かを学び取らなければいけないでしょう。
それが悲運の先人たちへのせめてもの弔いだと思います。
さて、森林太郎は日清・日露の両戦争に軍医として出征します。
脚気で次々に倒れて行く兵士を軍医として看て、何を思ったか。
日露戦争後、林太郎は陸軍軍医総監という陸軍軍医のトップとなり、
一方で森鷗外として『ヰタ・セクスアリス』『青年』『雁』など、
また乃木将軍の自刃を機に、『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』『澁江抽斎』等を発表します。
まさに文豪として確固たる地位を占めていくのですが、
ここで誰でも疑問に思うでしょう。
鷗外すなわち林太郎はそうした名作を生みながら、あの脚気問題から完全に自由だったのでしょうか。
あれほどの惨事を、もちろん一人で引き起こしたわけではありませんが、
やはりかなりの部分で責任を問われるべき林太郎は、
文豪鷗外としての自分と、軍医としての自分の両方をどのように折り合いをつけていたのか。
折しも、ヨーロッパでビタミン学説が誕生し、様々な文献の中でKanehiro Takaki(高木兼寛)の業績への言及が目立って来ます。
それを見て、林太郎の心の中にどんな思いが生じていたでしょうか。
そういった問題意識を持って、それこそ紙背に徹するほどの眼光をもって、
鷗外の数々の作品を読んで行くと、
実はたくさんの謎が作品群に散りばめられていることに気づきます。
その、点のような一つひとつの謎を線で結んで行った時、思いも寄らぬ鷗外像が現れて来ます。
私達が普通に使う“文豪”の意味とは次元の全く異なる意味での“文豪”と言ったらいいでしょうか。
明治日本という文明史的に稀有な時代に必然だった一つの役割を、
自らの運命として引き受けて最後の遺言で完結させるまで生き抜いた林太郎・鷗外。
今年は高木兼寛没後100年だったのですが、2年後には鷗外没後100年が来ます。
今、「鷗外学」は新しい段階へと進む時期に来ているのではないでしょうか。
林太郎・鷗外もそれを100年の間、待っていたと思います。
ちょうど、『雁』のヒロインお玉のように。 (アッサン)