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「第17回ビタミン街道歩こう会」参加記
令和元年11月23日(土)勤労感謝の日、第17回ビタミン街道歩こう会に参加しました。これは宮崎市高岡町の高木兼寛顕彰会が毎年この時期に開催しているイベントで、高岡町穆佐(むかさ)地区出身の高木兼寛にゆかりのある場所を歴史講話やゲームを交えながらゆっくり散策するものです。高岡町及び近隣地区から老若男女約50名の参加者でした。
今年は雨が心配されましたが、途中ぱらっときただけで、幸いまとまった雨は最後まで降りませんでした。
午前9時に高岡温泉「やすらぎの郷」をスタートし、旧穆佐小学校に向かいました。グランド横にある高木兼寛先生顕彰碑について顕彰会役員の方の説明を聞きました。
その石碑のすぐそばに穆佐城址に登って行く山道があり、私たちはそこから今度は穆佐城址へ向かいました。
穆佐城の歴史は古く、説明によると、足利尊氏の時代には存在していたようです。
城の建物は残っていませんが、場内の区画である「曲輪(くるわ)」址が残っていて、防御性を高める「堀切(ほりきり)」など興味深い箇所もありました。
次に私たちは穆佐城址のある小高い山の反対側に出て、高木兼寛生誕の地と言われている地区に向かいました。
坂を登っていくと「穆園(ぼくえん)ひろば」があり、高木兼寛の業績について顕彰会の役員の方の説明がありました。また、子供たち向けの宝探しゲームもありました。そして高木兼寛の像の前でみんなで集合写真を撮りました。
お昼が近づいてきたので、私たちは坂を下りて小山田コミュニティーセンターに向かい、そこで昼食をとりました。
昼食では、高木兼寛の代名詞とも言える“麦飯”が配られました。
明治時代、国民病と恐れられた脚気(かっけ)撲滅のため麦飯の効用に着目し、日本海軍の兵食改革を断行して兵士の命を救い、のちのビタミン発見のきっかけを作った高木兼寛の偉業をみんなで偲びました。
昼食後は高木兼寛にまつわるクイズゲームやなつかしい歌をみんなで歌って楽しみました。
非常に印象的だったのは、「茸(たけ)狩りに」という高木兼寛の短歌に地元の音楽の先生が節をつけた歌があり、それを今回参加していた高岡中学校の生徒さんたちがその場のリクエストで合唱してくれたのですが、その澄んだ歌声にみんなが感動し、拍手喝采、「アンコール!アンコール!」の声が沸き上がったのでした。
昼食休憩のあと、次に私たちは穆佐神社に向かいました。
薩摩藩の郷士だった高木兼寛の父の生業は大工だったのですが、この穆佐神社も高木兼寛の父が建造したと言われています。
幼い兼寛少年ももしかしたら手伝ったかもしれないという話を顕彰会の中山会長がされていました。
穆佐神社に隣接してみかん畑があり、私たちは今度はみかん畑に行きました。
高岡郵便局の平原局長のご好意で、毎回みかん狩りが行われています。
参加者の皆さんは、あらかじめ用意してきた剪定ばさみでビニール袋いっぱいにみかんを採っていました。
重いみかんの袋をかかえて散策を続けるのは大変ということで、局長さんが軽トラックにみかんの袋を積んで先回りして運んでくれたのが有難かったです。
みかん狩りが終わると、最後の訪問先である高木家祖累代のお墓にお参りし、最初のスタート地であるやすらぎの郷に戻りました。
全員集合した後、解散式があり、最年少及び最年長完歩者が表彰され、全員に参加賞が渡されました。
すべてが終了したのはちょうど午後3時でした。
こうして、晩秋ののどかな穆佐地区をゆっくり歩き、郷土の偉人である高木兼寛ゆかりの地を訪問し、歴史講話に耳を傾け、歌やゲーム、みかん狩りをして楽しむという盛沢山の歩こう会が終わりました。
高木兼寛顕彰会の中山会長、そして歩こう会実行委員のみなさん、本当にありがとうございました。
歴史、文化、自然、そして健康…「ビタミン街道歩こう会」の名称にふさわしいイベントでした。