社会福祉法人 信愛会

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高木兼寛という人がいた⑰

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鷗外と大論争を繰り広げた人です。)


 次に、脚気をめぐる高木兼寛とドイツ医学派との対立の表の③森林太郎による白米至上主義について見てみます。
              

 森林太郎。のちの文豪森鷗外。夏目漱石と並び称される明治・大正期の文豪。和・漢・洋の古今の文芸に通じ、格調高い文体と知的な構成力、それらが独特の審美眼によって貫かれて、数多くの名作を残しています。『舞姫』『阿部一族』『渋江抽斎』など、まさに“クラシック”という言葉がふさわしい作品群です。鷗外は、のちの多くの作家や思想家に影響を与え、もし鷗外がいなかったら、日本の文学界は決定的な何かを失っていたでしょう。“鷗外の前に鷗外なく、鷗外の後に鷗外なし”という表現も、決して大げさなものではないと思います。
              

 一方。森林太郎の本業は陸軍軍医だったのであり、脚気をめぐる海軍軍医高木兼寛との対立では、これまた決して小さくはない役割を演じています。文学者森鷗外はこれまで100年の間研究されて来ましたが、森林太郎の医業の方はようやく近年になって光が当てられるようになりました。鷗外の文名があまりに巨大すぎて、林太郎の医業の面が隠れてしまっていました。しかし、林太郎の医業の方を詳しく見てみると、特に脚気への対応に関して、後世の厳正な検証を受ける必要がある、と言わざるを得ません。林太郎のドイツ医学派における立ち位置に注意しながら、林太郎が脚気問題に関して何を言い、何を行ったかについて見て行きたいと思います。
              

 このブログは、郷土の偉人高木兼寛を発見し、その業績に驚嘆して始まったのですが、兼寛の足跡をたどって行くうちにいろいろな問題に遭遇し、森林太郎・鷗外にまで至ってしまいました。兼寛と脚気のことを知るまでは、全く予想していなかったことです。林太郎が脚気問題で何を言い、何を行ったか、を知った上で、鷗外の文学を見る。そして今度は、鷗外の文学を見た上で、林太郎の医業を見る。そのようにして相乗的に両者の理解が深まって行きます。従って、私の森鷗外・林太郎の理解もその途上にあり、これは中間的な報告でしかありません。時間が経てば経つほど、読み込めば読み込むほど理解が深まっていくでしょう。鷗外の文学が素晴らしいものであることは誰も異論はないでしょう。しかし、少し踏み込むと、謎もたくさんあります。その謎に対して、林太郎の医業からの視点が思わぬ光を投げかける…これは十分に予想できることです。
              

 脚気問題は林太郎にとっても決して小さな問題ではなかったのであり、明敏な鷗外の中でどのような葛藤があり、それが作品にどう反映されたか、されなかったのか。鷗外没後100年を迎えようとしている今、文豪森鷗外と軍医森林太郎のトータルな形での理解の時期が来ていると思います。そしてそのトータルな形での理解が出来た時、鷗外が遺した最大の謎、「…余は石見人森林太郎として死せんと欲す。…森林太郎として死せんとす。墓は森林太郎のほか、一字もほるべからず。…宮内省陸軍の栄典は絶対に取りやめを請ふ…」の遺言の謎も氷解するのではないでしょうか。(アッサン)
              

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