社会福祉法人 信愛会

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高木兼寛という人がいた⑯

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)
 高木兼寛についていろいろ調べていく中で、東京慈恵会医科大学名誉教授の松田誠氏の一連の文章から多くのことを学んでいますが、その中に『高木兼寛とビタミン』という文章があります(インターネットで見ることができます)。初めてこの文章を読んだときの鮮烈な感動は今も記憶に残っています。ビタミン発見に至る過程がわかりやすく書かれていて、少年時代に科学の物語を読んで素直に感動した時の、知的な興奮というものを再び味わった思いがしました。
 この『高木兼寛とビタミン』の文章の他にも、松田氏には『高木兼寛の脚気栄養説が国際的に早くから認められた事情』『高木兼寛の脚気の研究と現代ビタミン学』『脚気病原因の研究史―ビタミン欠乏症が発見、認定されるまで―』などの文章があり、大変参考になりました。それらの文章及び他の資料を交えて、ビタミン発見へ至る展開を下記のようにまとめてみました。

 ここには科学の進展の典型的な例があります。先行する者の説を確認し、一部の変数を変えて新たな実験をし、その結果をもとに先行者の説を修正し科学誌に発表する。それをまた次の者が同じような取り組みをして更に新しい説を生み出し、一歩一歩真理へ肉薄して行く。先行者の説にちょっとでも誤りがあれば全てを否定し去るというような“全か無か”の態度ではなく、誤りを修正し改良した説を公表する。ここまでは確実だ、という範囲を徐々に広げて行く。そして壁にぶち当った時、一種の跳躍が行われて全く新しい概念が生まれ、それがブレイクスル―となって新しい段階へと進んで行く…Funkの命名によるビタミンも、これは命名の傑作であって、命にかかわる(vital)アミン(amine)なるものが存在するとすれば、脚気に限らずこれまで難病・奇病とされ原因がわからなかった病気も、何らかのビタミン的なるものの欠乏ではないか?という視点も可能となり、細菌学とはまた違った、全く新しい分野が一挙に開けたのです。
 このようにして未踏の地が開拓されて行くのですが、ひるがえって当時の日本の医学界を見ると、兼寛の説に対する批判に終始し、足が一歩も前へ出ていないことに愕然とします。輸入した既存の西洋医学の体系の中にとどまり、兼寛による脚気根絶という新しい現象を前にしても、「学理がない」と言うだけで、自らその学理を追究することはしませんでした。当時、学理とは何か権威をもって既成のものとして西洋からやって来るもので、自ら探求するものではなかったのでしょう。そう考えると、自然科学の分野で毎年のようにノーベル賞を輩出している現代の日本は、随分遠くまで来たわけで、すごいことです。
 未踏の地に足を踏み出すことはいつの時代でも不安がつきまといます。ビタミン学を開拓していったヨーロッパの学者達も、細菌学全盛の時代にあって、何度も引き返そうと思ったことでしょう。そんな時、兼寛の行った壮大な実験航海と兵食改革による脚気激減の実績は、学者達にとってどれほど勇気づけるものだったでしょう。栄養と病気の関係については昔から言われていたことでしたが、明確な意図をもって実験を行い、その結果をデータとして科学誌に掲載したのは兼寛が初めてでした。これにより、栄養と病気の関係が科学的議論の俎上にのぼったのです。兼寛はビタミンそのものを発見したわけではなかったけれども、このようにビタミン発見へと至る潮流を創り出す上で、非常に大きなインパクトを与えました。その意味で兼寛を「ビタミンの父」と呼ぶのは適切だと思います。あるいは、より直接的にはFunkがビタミンの父であるとすれば、兼寛は「ビタミン学の始祖」と呼んでもいいかもしれません。         (アッサン)

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