社会福祉法人 信愛会

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高木兼寛という人がいた⑮

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)

 

 次に、脚気をめぐる高木兼寛とドイツ医学派の対立をまとめた右表中の②の大沢謙二による批判を見てみます。

 兼寛は「脚気は栄養バランスの異常から生じる。具体的にはタンパク質に比して炭水化物を異常に摂り過ぎると脚気になる。窒素と炭素の比率に置き換えると、1:15を大きく逸脱すると脚気になる」と主張します(窒素はタンパク質にのみ含まれるのでこのように置き換えることができます)。

 これに対し、大沢は、兼寛は各栄養素の摂取前の比率しか見ていないが、吸収率を見ないとおかしいのではないか。例えば、兼寛は白米よりも麦飯を勧めるが、麦の消化吸収は白米よりも劣っているので、麦と白米のタンパク質の吸収率を考慮すれば白米のタンパク質の方が体内に吸収される量が多くなる。それはタンパク質を重要視し麦飯を勧める兼寛自身の説に矛盾する、と言って批判しました。

 これは非常に鋭い批判です。兼寛もこの批判に関してはかなりショックを受けたでしょう。そして、もし大沢が批判にとどまらずに、更に探究を推し進めていたら、炭水化物でもタンパク質でもない、何か未知なる物質が存在するはずだ、という予想にたどり着いていたかもしれません。しかし、残念ながら、大沢は兼寛の説の批判にとどまり、それを修正・発展させるという道には進みませんでした。それを行ったのはヨーロッパの学者達でした。

 兼寛は、こうしたドイツ医学派からの批判や無視に苦しみ悩みながらも、海軍での兵食改革を推し進め、脚気撲滅の実績を積み上げて行きます。何百という海軍の脚気患者が兼寛の考案した食事献立で日々快方に向かい、快癒して軍医である兼寛に対して感謝を述べるその一つ一つのケースが、兼寛にとっての慰めであったでしょうし、自信の源でもあったでしょう。

 このように、海軍においては兼寛の主張に沿った兵食改革により、脚気患者や脚気死亡者が劇的に減少したのですが、ドイツ医学派が占める陸軍医務局は兵食改革を行うわけでもなく、学者達も兼寛の説を修正・発展させるわけでもなく、兼寛の説の不備を突くばかりでした。ドイツ医学派の批判は、兼寛の主張には“学理がない”、ということでした。なぜ、窒素と炭素の比率が1:15を逸脱すると脚気になるのか、それを説明する学理がない、というのです。

 この「学理がない」という表現は、少し立ち止まって考えると、非常におもしろい表現だと言えます。おもしろいと言う意味は、当時の日本の科学者たちの立ち位置や指向を表しているという点で興味を引くという意味です。兼寛は、統計の分析、患者の診察、兵士の食事の観察などから、脚気栄養バランス説に至り、実験航海や兵食改革を通してそれを確認し、窒素と炭素の比率1:15という説を導き出します。そして実際に脚気患者を激減させて行きます。これは驚くべきことであって、兵士の健康管理を預かる現場の軍医としては、必要にして十分な働きです。称賛されこそすれ、何ら批判されるような筋合いのものではありません。そして、こうした驚嘆すべき現象を前にして、その背後にある学理を探求することは、それこそ学者の仕事ではないでしょうか。「学理がない」と言って、現場で実績を出している軍医を批判することは、学理追究という学者としての本分を当時の学者達はどうとらえていたのか、ということです。

 「学理がない」というのは、もっと詳しく言うと「当時の日本が受け入れつつあった西洋医学の体系の中に、この兼寛の説の根拠となる学理がない」ということでしょう。既存の体系の中にはない。それはつまり、兼寛が示した脚気激減の現象は世界初の現象だったということです。そういう場合、現代の日本の科学者であれば、ここには何か新しいものがある、新しい鉱脈がある、ということでその原理の解明に向かうでしょう。しかし、当時の日本では、新しい現象を見ても、それを説明する学理がないと言って、その現象そのものを否定する、あるいは無視する、という方向に動いたのです。

 これは結局、当時の日本が、西洋医学を輸入することに精一杯で、既存の西洋医学の体系を何か絶対的なもの、確固として動かすべからざるもの、と見なす傾向があった事から来ているのでしょう。何かを受容する場合は、そのように対象を絶対視した方が受容の度合いも大きいのは確かです。その意味では、文明開化時の日本は非常に優秀な学習者だったと言えます。しかし、兼寛が提示した現象は、既存の体系の中にはなく、従って学習の対象ではなく、未知の学理をこれから探求すべき新しい現象だったのです。今学習し受け入れつつある既存の西洋医学の体系では説明できない新しい現象。それをどう扱えばよいのか。当時の日本の学者達の手に余った、ということも兼寛の説が当時の日本の医学界に受け入れられなかった理由の一つと言えるかもしれません。明治開化期の日本は“科学”は輸入したけれども、“科学すること”を自ら体得していた学者は極めてまれだったでしょう。兼寛はその希少な一人であり、時代よりも先行していたがゆえの苦悩だったと思います。

 兼寛が示した兵食改革による死病脚気(西洋ではberi-beriと呼ぶ)の根絶という世界初の現象は、日本ではなく、ヨーロッパで本格的に解明が進みます。科学とはこのようにして進展するのだという見本のような、学者達の見事なリレーによって、ビタミン学の肥沃な分野が立ち現われて来ます。兼寛たちの時代より300年も前から自然科学展開のトレーニングをして来たヨーロッパ。さすがです。ただ、その展開の始点に日本の高木兼寛がいることは、誇っていいことでしょう。                   (アッサン)

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