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高木兼寛という人がいた⑭
(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)
この表は脚気をめぐる高木兼寛とドイツ医学派の対立を簡単にまとめたものです。表中のドイツ医学派①、②、③についてもう少し見て行こうと思います。
①の脚気細菌説について。
兼寛とドイツ医学派が脚気をめぐって論争をしていたこの時期は、ヨーロッパでは細菌学がちょうど隆盛期を迎えていて、ドイツのコッホやフランスのパスツールが華々しい活躍をしていました。そのコッホを生んだドイツ医学を官学として採用した当時の日本の医学界が、難病脚気の原因は細菌ではないかと想定するのは、時代の趨勢からして無理からぬことだったでしょう。しかも、東大医学部のドイツ人教師ベルツや京都療病院のドイツ人医師ショイベ等が脚気細菌説、脚気伝染病説を唱えていたこともあり、多くの日本の医学関係者が脚気細菌説に傾いていました。
しかし、冷静に見てみると、この議論自体には脚気の原因が細菌であるという科学的な根拠はないことがわかります。細菌学が当時世界的に隆盛期を迎えていたことや、コッホを生んだドイツ医学を日本が官学として採用したこと、ドイツ人の先生たちが脚気細菌説を唱えていたこと。こうしたことだけでは、当然ながら、脚気の原因が細菌であることを示す科学的な根拠とは言えません。
兼寛のすごいところは、こうした時代の趨勢に流されず、データの分析、脚気患者の診察、兵士たちの食事の観察等から、全く違う推論を展開したことです。ここには一個の独立した、“剛毅な”と言ってよい精神があります。そして自ら導き出した結論を基に、失敗したら切腹という覚悟を持って、国家的規模の壮大な実験航海を行ったのでした。
ドイツ医学派は顕微鏡と試験管を使って研究室で病原を追究して行きますが、脚気患者の体をいくら顕微鏡を使って検査してもいつも空振りに終わりました。顕微鏡を使うこと自体は、病原追究のためには必要なことです。しかし、患者の体内について調べるということは、その時点で一つの仮説を無意識のうちに採用していなかったでしょうか。すなわち「患者の体内に何か通常とは異なるものが“有る”のではないか」という仮説。この第一歩目が既に間違っている、ということにはなかなか思い至らなかったでしょう。というのは、現代の私達にはもうわかっていることですが、何か有害なものが“有る”から起こる病気もあれば、必須なものが“ない”ことから起こる病気もあり、脚気は後者だったからです。しかも、この時点では必須なものが何なのかわかっていない。そういうものが存在することすら誰も知らない。存在することさえわかっていないものが、そこに“ない”ことから生じる病気…これはめまいのするような話です。患者の体内を顕微鏡で調べても、常に空振りに終わっていた理由がそこにあります。
兼寛は全く違うアプローチをしました。統計的データの徹底的な分析により、言わば、外側から問題の在りかを絞り込んで行く方法で、患者の体内ではなく、食物、その栄養のバランスに問題があることを突き止めました。問題の在りかさえわかってしまえば、その後は顕微鏡などを使って精査して行けばよいので、そのレールの延長上にビタミンの発見があります。ドイツ医学派は、何か有害な有るもの(細菌)、それの人体への侵入、というように問題の領域を安易に限定してしまったと言えます。
ドイツ医学派の中にも、兼寛による海軍での脚気激減の実績を見て、また、兼寛の先入観のない、道理にかなった推論に触れて、脚気栄養バランス説に賛同する者もいたでしょう。しかし“官学”たるドイツ医学派としての立場上、表だってイギリス医学派の兼寛への賛同を表明することは難しかったかもしれません。また、強固に脚気細菌説を信奉する学者が歴代の東大医学部の学長として君臨していたその下で、果たしてどれほどの自由な研究が可能だったでしょうか。トップが誤ることはあります。その時、下の者はどう対処して行けばいいのか。現代の私達はそれに関して多少なりとも進歩しているのでしょうか。トップが誤ることをも予め織り込み済みの体制作りとなっているのでしょうか。
兼寛とドイツ医学派との対立は、いろいろなことを現代の私達にも問いかけていると思います。 (アッサン)