社会福祉法人 信愛会

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高木兼寛という人がいた⑫

(私たち社会福祉法人信愛会は宮崎市高岡町に位置していますが、ここ高岡出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。高木兼寛(かねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鴎外と大論争を繰り広げた人です。)
 明治17年(1884年)11月16日、練習艦『筑波』が太平洋横断の大航海を終えて東京湾に戻って来ました。前年に多くの脚気患者、死亡者を出した『龍驤(りゅうじょう)』との比較は次の表の通りです。

『龍驤』と『筑波』の比較表

 『筑波』の脚気患者は15人で、『龍驤』の10分の1以下。死亡者は0でした。15人の脚気患者について詳しく報告を聞くと、肉や牛乳を嫌って口にしない者たちでした。米飯に慣れていてパンを捨てる者もいるということでした。脚気対策には洋食がいいというのが兼寛の確信でしたが、洋食を嫌ってそれを口にしなければ意味がありません。パンこそが至上の主食であり、白米は脚気の発生を促すと考える兼寛は、パンの原料は麦なので主食を米と麦の混合にしたらどうか、と提案します。兼寛の兵食改革の効果に感嘆していた川村海軍卿はその提案を受け入れ、全海軍に通達し、“麦飯”が供給されるようになりました。

 こうした海軍における一連の兵食改革の結果が次の表及びグラフです。

海軍における脚気患者数と脚気死亡者数の推移

 

 上のような、海軍における脚気患者数と死亡者数の激減のデータを前にして、海軍が断行した兵食改革が脚気減少に何らかの影響を与えている、と見るのが素直な見方でしょう。ここには何もない、と見る方が難しいでしょう。しかし、陸軍医務中枢部や東大医学部の一部はこれを“偶然であり、因果関係はない”と断定。真正面からとらえようとしない者もいました。結局、陸軍は、海軍のこうした脚気激減の現実があるにもかかわらず、みずからの兵食改革を断行できずに、日清・日露戦争に臨み、脚気大惨事を引き起こしてしまいます。それは陸軍自身が「古今東西の戦疫記録中ほとんど類例を見ざる」と評するほどの惨事でした。(日清では陸軍の脚気患者は34,783名、脚気による死亡は3,944名。日露では陸軍の脚気患者は211,600余名、脚気による死亡は27,800余名。一方海軍は、日清での脚気患者は34名、死亡1名。日露では脚気患者は軽症者が若干名、死亡0)

 すぐには信じられない数字であり、日清と日露との間には10年という年月があるのに、何も学習することがなかったのでしょうか。また、同じ日本の軍隊で、陸軍と海軍の間でこれほどの違いがあるというのは、国としてどうなのでしょうか。それらは誰もが自然に持つ疑問でしょう。

 そうした疑問を突き詰めて行くと、次の問いに行き着きます。すなわち、なぜ、陸軍医務中枢部や東大医学部は、海軍の脚気激減のデータを前にして「ここには何らかの因果関係があるのではないか?」と認められなかったのか。この問いは非常に大きな、また深いテーマになり得ると思います。そして、いろいろな教訓を引き出すことのできる研究対象となり得ると思います。

 ドイツ医学派対イギリス医学派という党派性の問題、医学と医療の役割の違い、科学の受容に精一杯だった当時の日本の“科学マインド”の成熟度、政策決定を行う中枢部と現場との関係のあり方、官や“お上”に対する当時の日本人の心性、一つの党派が官・学・軍を独占することの功罪、…そうした様々な問題に波及して行く可能性をもった研究テーマだと思います。

 このブログは、私達の郷土が生んだ偉人、高木兼寛の功績を追いかけようとして始まったのですが、とても大きな、困難な山が現れて来てしまいました。その山を前にして、兼寛自身もその生涯の中で大変苦しみ悩んだはずです。世界的な業績を達成しながら、自分の国で認められずに、ほとんど孤軍奮闘と言ってよい兼寛でした。

 このブログでは、このあと、兼寛に対するドイツ医学派からの集中的な批判を検証したいと思います。また、国内とは対照的に海外で次第に高まる兼寛の評価を私達は見るでしょう。そして最後は文豪森鴎外の謎に、少し、踏み込みたいと思います。     (アッサン)

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